第二章ー6
「あなたが、〈ファントム〉……」
「私のことを探していたようだな」
鼓膜に響く低音。
流麗な手つきで胸に添え、「私に何か用かね? お嬢さん」
背丈はミドリよりも頭ひとつぶん上だ。噂通りマントを羽織っているため、体格から男か女かも判別つかない。
何も答えられずにいると、〈ファントム〉は「くくっ」と喉を鳴らした。
「ここまで乗り込んできた度胸があるというのに、だんまりかね? それではいけない。物事というものは最後までやり遂げてこそ意味と価値があるのだよ」
「…………」
心臓が跳ねている。
得体の知れない〈マスカー〉を相手にした時どうするのか、何も考えていなかったことにようやくミドリは思い至った。何かあれば道化が来てくれる――そういった淡い期待があったこと、自分の甘さを思い知る。
ぎこちなく首を――今しがた息を引き取った少年に向ける。
先ほどの光景が鮮烈に記憶に焼きついている。
こんなことをあの二人のどちらかがやっているのだとしたら――
「あ、あなたは……」
「うん?」
「あなたは一体、何が目的なの?」
〈ファントム〉はあごをくいと上げ、ミドリを見下ろした。値踏みするような目つきに、ますます落ち着かなくなる。
「目的、目的か……」
つぶやき、口の両端をつり上げる。
「〈ファントム〉を――『オペラ座の怪人』を知っているのならわかるだろう? 私は愛する人のために、骨を惜しまず動いているのだよ」
「愛する人って誰?」
「そこまで明らかにするのは野暮というものだ。そうだろう? ……引島ミドリくん」
ミドリは息を呑んだ。
手が震え、体がこわばり、足が地に縫いつけられている。
〈ファントム〉は気を好くしたようにうなずいた。
「忠告しよう。今ならばまだ引き返せる。君は何も知らないまま、ただ私の手の上で踊っていればいい。そうすれば危害は加えない。……君の家族にもね」
「ッ……!」
「家族が〈カオナシ〉にされるのは嫌だろう?」
嗜虐的な笑みを浮かべる。
何もかも見透かした上で、楽しんでいる。
恐怖——そして、わずかながら怒りが芽生えた。
何も知らない少年を亡き者にし、家族のことを持ち出して脅してくる。
こんな人が、あの二人であるはずがない。
そんなこと信じられない。
次第に膨らんでいく感情が、ミドリに口を開かせた。
「だから……どうしたっていうの?」
「んん?」
「あなたが……もし、あなたが私の家族や友達に手を出したりしたら、絶対に許さない。それだけじゃない。色んな人がもしあなたの犠牲者になっているんだとしたら、それも許さないから。私は……たとえどんな理由があったとしても、〈マスカー〉として人を傷つけているあなたを許さないから……!」
声が震えている。まともに舌が回っているかも怪しい。
殺されるかもしれないのに。
それでも言わずにはいられなかった。この怪人が自分の欲望のために人に害をなし、あんな風に死に至らしめているのだとしたら――
それは間違っているのだと誰かが言わなければならない。
少なくとも自分の叔父ならば、きっとそうするはずだ。
「ミドリくんの言う通りだよ、〈ファントム〉」
はっと振り向くと――病室の窓の縁に、道化が立っていた。
「道化さん……!」
「遅くなってすまない。ちょっとアクシデントがあってね」
室内に足を踏み入れると、〈ファントム〉は鼻を鳴らした。
「お前が噂の
「おや、僕のことは有名なのかな?」
「ああ、その界隈ではな。〈マスク狩り〉なる存在がいることは聞いていたが、ただの噂話だと思っていた。この目で見るまではな」
「〈マスク狩り〉ねぇ。安直なネーミングだなぁ」
「……ここまで来れたということは、私のしもべは役には立たなかったようだな」
「いやいや、それなりに手強かったよ」
道化は衣装の裾から白い仮面を取り出した。〈ファントム〉が着けているものと同じ――いや、片目だけしか隠せない仮面だ。それを〈ファントム〉に掲げて見せると、仮面は音を立てて瓦解した。
「君からの招待状、ありがたく受け取ったよ」
「手練れを集めたつもりだったが……使えない奴らめ」
吐き捨て、舌打ちする。
道化はミドリの前に移動し、それから少年の死体を見下ろした。
わずかな沈黙。
それから肩越しに振り返り、「大丈夫かい?」
「うん、私は大丈夫。それよりも……」
「わかっている。〈ファントム〉を止めろっていうんだろう?」
「うん。でも……」
「それもわかっている。必要以上に傷つけるな、殺すなだろう?」
「……うん」
道化は緩く首を振り、「なかなか難儀だな」
「だが、君の覚悟は見届けた。あとは僕に任せたまえ」
ミドリを庇うように、腕を横に動かす。
〈ファントム〉は忌々しげに唇を噛んでいた。
「まったく……邪魔者というのはいつの時代でも現れるものなのだな」
「悪いね、君の物語ははるか昔に終わっているんだ」
「終わってなどいない。そして終わるものでもない。どこの馬の骨とも知れない道化者に、私の筋書きを狂わせてたまるものか!」
ぱちん、と指を鳴らす。
〈ファントム〉の背後——病室の扉から一斉に仮面をつけた人々がなだれ込んできた。老若男女問わず――中には子供までもいる。明らかに怪我をしている者も。
「掴まりたまえ」
「え?」
まともに答える暇もなく、道化はミドリの手を引いた。抱きかかえられ、そのまま病室の窓から外へと躍り出る。
「きっ――やぁッ!?」
二階から飛び降りた道化は難なく着地した。
彼の腕から丁重に下ろされ、「あ、ありがと……」
「どういたしまして」
「でも、今度からは一言お願い……」
「それはそうだね。さて――」
特別病棟の陰からまたしても、〈ファントム〉のしもべが現れた。言葉にならない呻き声を漏らし――手足をぶるぶると震わせている。前方と後方、そしてフェンスから乗り越えてくるしもべたちを前に、「ひどい」とミドリはつぶやいた。
「みんな、病人じゃない。なんでこんなことができるの?」
「自分の目的のためならば手段を選ばない。それが〈ファントム〉だろう」
「でも! いくらなんでもこれは――」
「お喋りは後にしよう。まずはこの立ち回りをうまく演じないとね」
しもべが一斉に襲いかかる。おおよそ統制の取れていない動きだ。しかし、その中でも比較的若そうな男女が急速に迫ってくる。
道化はまず、青いカラーボールを取り出した。それをしもべたちの足元に投げつける。粘度の高い塗料が地面で弾け飛び、足を取られ、転倒した。後ろに続く者たちも転倒した男女にぶつかり、次々と倒れ込んでいく。
「やった!」
「まだ早いよ」
無様に転んだ男女を乗り越え、今度は子供と老人が襲い来る。スピードはそれほどでもないが、白濁した目と青白い肌にぞわりと鳥肌が立つ。
「道化さん!」
「はいはい、わかってますって」
次に道化は石灰色のカラーボールを投げた。それは子供と老人たちの頭上で破裂し、中から粉が噴き出す。それを吸ったしもべたちは激しくむせ始めた。
「この匂い……コショウ?」
「正解」
しもべたちの動きはほぼ止まった。
「頃合いかな」と今度は黄色のカラーボール。両手の指に一個ずつ。
「ミドリくん、目と耳を塞いでいたまえ」
「え!?」
「いくぞ!」
ばっ、と真上に投げると同時、ミドリはとっさに地面にしゃがんだ。
目の裏にも焼きつく閃光、そして鼓膜をつんざく破裂音。〈ファントム〉のしもべたちが一斉に悲鳴を上げ、ばたばたと地面に倒れていく。
ミドリは頭を抱えたまま、呆然とその光景を目の当たりにした。
「す、スタングレネード……?」
「いやいや、そこまで物騒ではないよ。僕専用にちょっとアレンジしたものさ。別に後遺症が残るはずではないしね。たぶん」
「たぶんって……」
不意に、道化の背後に人影が立った。
前触れもなく。
その人影——〈ファントム〉は手にしたナイフで道化に斬りかかった。道化はとっさに前転し、すぐさま身を起こす。道化の眼前の〈ファントム〉は、面白くなさそうにしもべたちを一瞥した。
「やはり、急場しのぎの雑魚ではこんなものか」
「病人をも引き出しておいて、よく言うね」
「どうせ未来のない連中だ。ならば少しでも役に立つように動かせばいい」
「それは君の決める筋書きじゃない」
「ならば死ね」
〈ファントム〉がナイフを突き出す。
道化は身をひね、〈ファントム〉の腕に青のカラーボールを投げた。
〈ファントム〉は見透かしていたように腕を引く。空を切ったカラーボールが地面に当たって塗料をぶちまけるのと、〈ファントム〉が闇に溶け込んだのは同時だった。
「消えた!?」
「なるほど、それが君の力か」
たん、と足音が聞こえた。
続けざまに同じ音が、別方向からいくつも重なり合う。それなのに足音の主の姿はまるで見えない。
無人の舞台の上で、足音だけが聞こえてくるような――
「ど、道化さん……!」
「大丈夫。僕から離れないことだ」
ミドリは道化の背後にくっつくようにして、周囲を見回した。
なおも足音は続く。
その中で、風を切る音がした。ミドリの首筋にナイフの切っ先が迫り――間一髪で道化が〈ファントム〉の手首を掴んだ。
ミドリはへたり込み、道化と〈ファントム〉をただ見上げている。
くい、と道化は首を傾げた。
「いきなりミドリくんを狙うとはね」
「弱者は真っ先に切り捨てられて当然だ」
「それは君の実体験からかい?」
〈ファントム〉は答える代わりに、道化の手を乱暴に振り払った。ナイフをマントの陰に収め、掴まれた手首を押さえる。
「もう終わりかな?」
「いいや、今のはただのリハーサルだ」
「なかなかに減らない口だね」
「貴様に言われたくはない」
〈ファントム〉の手元が煌めいた。
道化は瞬時に、その煌めきの正体を指で掴む。それは矢——ボーガンの矢だった。
「飛び道具か」
「その足手まといを守りながらかわせるかな?」
「…………」
道化は「ふむ」と仮面の下部をつまんだ。
「少々厄介だね。でも……」
「何か手があるとでも?」
「そうだね。君もわかっていると思うけれど、最初から手札はオープンにしないものさ。そうだろう?」
その時——遠くからサイレンの音が聞こえた。急速に近づいてくるその音に、〈ファントム〉が口元を歪める。
「まさか、貴様……!」
「古典的な手段だけどね。だからこそ効果があると思わないかい?」
「ちっ!」
〈ファントム〉は第二射を放ち、後ろに跳んだ。すぐさま闇に消え、追跡を断ち切るように無数の足音を鳴らす。
やがて――静寂が訪れた。
道化はしばらく周囲を見回していた。〈ファントム〉のしもべとなっていた者たちはみな、気を失っている。仮面も剥がれ、素顔があらわとなっている。
「大丈夫かい?」と道化が手を差し出してきた。
「あ、うん……」
握り返すと、道化は腰に手を添えて立ち上がらせてくれた。少し恥ずかしかったが、相手が道化だと不思議と嫌な気分はしなかった。
「あ、ありがとう」
「どういたしまして」
立ち上がるも、まだ全身が震えている。今になって、〈ファントム〉と対峙した時の恐怖がよみがえってきた。
なんて無謀なことをしたのだろう――
「ミドリくん?」
「あ、ごめん……なさい。なんか、気が抜けちゃって……」
両腕で体を抱きすくめる。それでも震えは収まらなかった。
不意に、背中が温かくなった。首を向けると道化がミドリの背中をさすり、ぽんぽんと叩いていた。
とても優しい手つき。
なんだか懐かしくなるような――気づいたら、涙がこぼれていた。
なぜ泣いているのか自分でもわからなかった。
「ミドリくん」
「うん、ごめん。泣いている場合じゃないよね」
「かまわない。好きなだけ泣きたまえ。君は十分すぎるぐらい頑張った。あの〈ファントム〉を相手にして一歩も引かない覚悟——そう簡単に真似できるものじゃあない」
「そうなのかな。わかんないや……」
サイレンの音が先ほどよりも大きくなる。
そして――遠くから馴染みのある声が聞こえてきた。
「ミドリ、ミドリッ!」
紛れもなく叔父の声だった。
まずい、と思った時には遅く、ダンはすでに病棟の陰から飛び出してきた。
「ミドリ! 無事だったか!」
「おじさん……!」
はぁっと安堵の息をつきかけ――ダンの動きが固まる。ミドリの背に手を置いている道化を見——ダンは反射的ともいえる速度で拳銃を引き抜いていた。
「ミドリ、こっちに来い」
「おじさん……!」
「いいからこっちに来い! 一度しか言わねぇぞ!」
天を衝くような声に、ミドリはぎゅっと目をつぶった。
恐れていたことが起こってしまった。今度という今度こそは許してくれないだろう。
だが――道化の身に何かあれば、〈ファントム〉を止められる人がいなくなる。
それだけは決して避けなくてはいけない。
「おじさん、聞いて! これはね――」
「いいよ、ミドリくん」
ぽんと背中を叩かれる。振り返ると、彼はただ肩をすくめていた。
ミドリはうつむき、ダンの元まで歩いていく。
何も怪我がないことを確認したダンは、ミドリを背後に押しやる。銃口は道化に定められたままだ。
「今度は逃がさねぇぞ。何かすればすぐに撃つ」
「法治国家の警察とは思えない台詞だな」
道化は両手を上げ、ため息をついた。
ダンは拳銃を構えたまま、一歩ずつ道化に近づいていく。
道化は動かない。
ダンはコートの裾から手錠を取り出し――慎重な手つきで道化の手首にそれをかけた。
「おじさん!」と叫ぶ。
「道化さんは何も悪くないの! 〈ファントム〉を止めようとしているだけなんだよ!」
「〈ファントム〉だかなんだか知らねぇが、こいつは〈マスカー〉だ!」
「〈マスカー〉だからなんだっていうの!? 道化さんは誰も傷つけてないんだよ!」
「いや」
そう否定したのは道化だった。
「刑事、ミドリくんの言っていることには誤りがある」
「誤りだぁ?」
「僕はミドリくんを利用していた。〈ファントム〉に近づくためにね」
「なに……!」
「な――何を言うの、道化さん!?」
道化はぴっと人差し指を立てた。
「僕は〈ファントム〉の力が欲しくてね。そのためにミドリくんに協力してもらってここまでつき合ってくれたんだよ。だからミドリくんを責めるのはお門違いというものさ」
「……わかりやすい嘘をつきやがって」
道化とミドリとを交互に見、ダンは舌打ちした。
「どうかな?」
「事情がなんだろうが、てめぇが〈マスカー〉であることに変わりねぇ。近頃起きている妙な事件も、てめぇの仕業か?」
「違う、違うよおじさん!」
首を振って否定するも、「黙ってろ!」と一喝される。
「とにかく、てめぇにはもろもろ聞きたいことがある。署までつき合ってもらうぜ」
「まぁ、僕としては構わないんだがね」
道化はダンの肩越しにミドリを見やった。
「彼女のことはどうするつもりだい?」
「てめぇには関係のない話だ」
「そうかい」
ダンがどれだけ睨みつけても、道化は飄々としていた。「来い」と腕を引かれても抵抗する素振りはまるでなかった。
ダンは道化を引き連れる形で、ミドリの横を通り過ぎる。「おじさん!」と呼んでも彼は振り返らなかった。
そして道化も何も言わなかった。もう一度だけ、肩をすくめるのみだった。
ミドリはその後、
時刻は十時を過ぎていた。
家に着いた時に、真っ先に出迎えてくれたのはアカネだった。リビングで待っていた彼女はミドリを見るや、足早に近づいて平手打ちを食らわせた。
「こんな時間までどこをほっつき歩いていたのさ」
「……ごめんなさい」
「アオイ、もう寝てる。あの子が作ったんだよ。あんたが言ってたハンバーグ」
テーブルを見ればラップにくるまれた食器があった。
アカネは眼鏡を外し、ミドリをじっと見る。
「ミドリ」
「うん」
「おっさんはどんなに怒らせてもいい。でも、あの子だけは泣かさないで」
「うん」
「おっさんとあたしたちがあの子の親代わりなんだよ。……わかっていると思うけどさ」
「うん。ごめんね、アカネちゃん」
「謝るぐらいなら……いや、もういいや」
首を鳴らし、自室に足を向ける。
ミドリは妹の背に向かって「アカネちゃん」
「明日の晩ご飯、ちゃんと作るから」
「……当たり前っしょ」
「おやすみ、アカネちゃん」
「おやすみ、ミドリ」
アカネは部屋に入り――ミドリはリビングで不格好なハンバーグを見下ろした。
電子レンジで温め、ようやく食事にありつく。
ほろりと崩れる肉を口に入れた時、ミドリは堪えきれなくなって泣いた。
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