第二章ー4
曇り空の下——ミドリは一人、
いくつもの棟が複雑に入り組んでいて、どこに特別病棟なるものがあるのかわからない。掲示板の地図を見ると、一般病棟よりも奥まった位置にあった。
職員や看護師の目を盗んで行けるかどうか。
そして〈ファントム〉の妨害がないかどうか。
言い知れぬ不安が立ち込めてくる。
ここまでは電車で来た。道化とは別行動となっている。
「僕は隠れて行くから、君は先に行きたまえ」
道化が近くについていないということも、より不安を大きくしている。
「大丈夫さ、君がピンチになったら必ず駆けつける」
ミドリとしてはその言葉を信じるしかない。
手を握り込み、深呼吸する。
ここまで来たら当たって砕けろだ。
ミドリは病院の敷地内に入り、まず外から受付の様子を窺った。もう遅い時間帯のためか、人気はない。
とりあえず足を踏み入れてみる。
周囲を見回してみるが、受付は不在だった。
いや、それだけではない――人が一人もいない。
それとも夜遅くの病院とはこういうものなのだろうか。そんなことはない、とミドリは頭の中で否定する。夜勤の人も警備員もいるはずだからその姿がまったく見当たらないなど、安心するよりも一層不気味だ。
ひとまず一般病棟の中を通って、特別病棟まで向かう。
その途中にも人はいなかった。
白い、無機質な廊下。非常灯。またしても無人の受付。エスカレーターだけが唯一、この病院の中で動いているものだった。
いくらなんでもこれはおかしい。
まるで自ら罠の中に飛び込んでいくようだ。先ほどから心臓の音が大きく、気持ちが悪い。
やがて――なんの障害もなく、特別病棟までたどり着いてしまった。カードキーを機械にかざすと、これもあっさりと開いた。
道化から『彼』のいる病室は聞いているため、番号を確認しつつ歩いていく。一般病棟よりも周囲が青白い。冷気さえ感じるほど。
『彼』のいる病室は二階にあった。やはり途中で人とすれ違うようなことはなかった。
病室の手前、番号を確認する。『彼』の名前はない。特別病棟の一室だからそういうものなのだろうか。
ミドリはまず、ノックしてみた。返事はないだろうと思っていたのだが、「誰?」と声が返ってきた。
恐る恐る扉を引くと、『彼』の姿があった。ベッドに腰かけ、丈の余った病衣を着ていて、そして顔には――仮面。
口元だけが露出した、白い仮面。
「どうしたの?」
『彼』の声に、ミドリは自分が絶句していたことに気づいた。
室内に入った位置はそのままで、意を決して口を開く。
「私は、引島っていうの。あなたと同じ……台舞高校の生徒」
「……上級生? 見慣れない顔だ」
「うん。二年生」
「ああ、先輩なのか。じゃあ敬語がいいのかな。どうかな……」
ミドリが面食らっていると、彼はぼんやりと虚空を見上げた。
「それで、何か用?」
「えっと……」
「わかってますよ。事件のこと、聞きたいんでしょ? 警察からさんざん聞かれた。あなたもその
「ううん、違わない」
「じゃあ、何を?」
「……〈ファントム〉について」
「やっぱり」と彼はうんざり気味に吐息をついた。
「何度も繰り返し言ってるけど、〈ファントム〉のことなんて詳しくは知らないんだよ。いきなりぼくの前に現れて、仮面を渡して去っていった。男か女かもわからないよ。まぁ、ぼくとしてはあいつに感謝しているけど」
「感謝?」
「もしかしたら聞いているかもしれないけど、ぼくはいじめられていたんだ。あの三人にね。仮面の力で骨を折ってやったりしたら、これが快感でさぁ。つい止まらなくなった。結果的にこんなところにいるし、この後警察にしょっ引かれていくんだろうけど、ぼくは後悔なんかしてないよ」
嬉々として話している。
今つけている仮面と相まって、異様な迫力がある。
「でも、あなたのご家族は……」
「やめてくれよ」と手を振る。
「どうせ、『家族はあなたのやったことで泣いてる』みたいなことを言うんだろ? 別に泣いたりしないよあいつらは。むしろ自分たちの顔に泥を塗りやがってみたいな感じに思っているはずだ。でもまぁ、ぼくはそれも目的だったからいいんだよ。自分たちの息子が〈マスカー〉になって傷害事件を起こしたんだ。それまでに積み上げてきたものが一瞬で崩壊したんだ。ざまあみろだ」
「…………」
「ぼくは後悔なんてしてない。仮面をつけたことでやっと――ずっといじめられっ子だった自分から解放されたんだ。だから〈ファントム〉には感謝している」
「でも、その仮面は? それも〈ファントム〉から渡されたもの?」
「ああ、これのことか」
『彼』は今つけている仮面に手を触れた。怪訝そうに首を傾げている。
「いつの間にか手元にあったんだ。でも、これといって力は感じない。なんのつもりなんだろうとは思うけど、〈ファントム〉のやることには間違いはないからね」
「間違い? 仮面をばらまいていることに?」
「そこまでわかっているんなら、君だってわかるだろ? みんな何かしらの劣等感を抱えている。仮面をつけて、解放されたいって思っている。ぼくみたいにね。その結果〈カオナシ〉になったとしても、悔いはないはずさ」
ふぅー、と息を吐いてベッドに倒れ込む。
「いっぱい喋ったから疲れた。こんな風に人と話すことなんてあんまりないからさ」
「……ひとつだけ聞かせて」
「なに?」
「〈ファントム〉の正体に心当たりはある?」
「ないよ。あったとしても、言いたくない」
「そう、なんだ……」
ミドリは顔から落胆の色を隠せなかった。
ここまで来たのに――とつぶやいて、はっと面を上げる。
「そういえば、ここに来るまでに人が全然いなかったの。何か知ってる?」
「え、そうなの?」
「あなたも知らないの?」
「いや……そういえば、確かにおかしいなとは思っていた。ナースコールを押しても全然反応ないし、トイレに行く時も付き添いがなかった。部屋にも誰も来なかったし……」
「……〈ファントム〉の仕業?」
「そう、かもしれない」
「目的はなに?」
「そんなことぼくに聞かれても困るよ……」
『彼』は初めて戸惑った。
考えれば考えるほどおかしい。ミドリがここに行くと決めたのは、ついさっきのことだ。それなのにこんなにタイミングよく、『彼』に会えるものなのだろうか。
もし、これが〈ファントム〉の仕組んだものなら――
「——ダメ! その仮面を外して!」
「え?」
ミドリが叫びに反応したように、『彼』の体がびくんと跳ねた。背筋をのけぞらせ、頭は天を向き、両腕があらぬ方向にねじ曲がっている。
「あ、が、ぐぁ……」
「外して、その仮面! 早く!」
反射的に駆け出し、『彼』の仮面に手をつける。どんなに力を込めても仮面が外れることはなく、むしろ一層顔に食い込んでいく。青白い首筋の血管が強く脈打ち、全身が痙攣を起こしていた。
「道化さん! どこにいるの、道化さん!」
必死に呼んでも、姿を現さない。
『彼』の体はぶるぶると震え――やがて硬直し、間を置かず力が抜けた。腕がだらんと地面に垂れ、そして――『彼』の顔から仮面が剥がれ落ちた。
「ッ……!」
『彼』の顔は赤く染まっていた。
血管があらわになり、白く濁った両目が盛り上がっている。ところどころに皮膚の破片と思しきものがこびりついていて、『彼』の体が脈打つ度に震えている。
ミドリは目を背けていた。『彼』がもう生きていないことは明らかだった。
そして――
「これで『彼』は用済みだな」
とっさに振り返ると、すぐ目の前に異装の人物が立っていた。
口元だけが露出した、白い仮面。タキシードの上に足首の長さまであるマントを羽織っている。かつて映画で見た『オペラ座の怪人』そのままの恰好。
オペラ座の地下からヒロインに恋するも、その想いが成就しなかった悲恋の怪人。
「あ、あなたが……」
「そう。私が『オペラ座の怪人』——〈ファントム〉だ」
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