第二章ー3

「やっぱり信じられないよ」

「そう思うかい」


 稽古と台本の修正がある程度終わった後も、ミドリは明かりのない体育館に残っていた。


 しばらく待っている内に予想通り道化がやって来て、二人は講壇の縁に並んで腰かけている。


久良木くらき先生もマキ先輩も、今度の公演に力を入れてるの。それなら〈マスカー〉として……ううん、〈ファントム〉として罪を犯すなんて難しいと思わない?」

「まぁ、僕もそう思うさ」

「そもそもどうして、二人のことを疑ってるの?」

「根拠はない。ただの勘さ」

「別の人の可能性だってあるよね?」

「そうだね。だからこそ君に協力をお願いした。僕では難しいことを、君ならやり遂げてくれるだろうと思ったからね」

「……何をすればいいの?」


「まぁ」と道化はあごをくいと上げた。


「簡単に言うならば潜入工作……スパイみたいなものかな」

「スパイ?」

「君には今回の事件の――被害者でもあり、加害者でもある『彼』から話を聞き出してほしいのだよ」


『彼』とは誰のことなのか、ミドリにはすぐに思い当たった。


 仮面を剥がされた時の顔を思い浮かべ、「でも……」


「君の言いたいことはわかる。どこにいるのか知らない、だろう?」

「うん。道化さんは知ってるの?」

「その程度のことは造作もない。台舞だいぶ総合病院の特別病棟——そこに先日の〈マスカー〉……あの少年が眠らされている。被害者の――いや、彼らも加害者かな? まぁとにかくあの少年に襲われた三人は普通病棟にいるが、彼らからはあまり期待できないだろうね」

「そんなところ、入れるの?」

「普通は無理だろう。そこで……」


 道化はぴっと、指で挟んだカードキーを取り出した。どこに仕込んであったのか、ミドリにはまるでわからなかった。


「これで入ってみて、『彼』から〈ファントム〉のことを聞き出してほしい」

「……そこまで用意しているなら、道化さんが行ってみてもいいんじゃないの?」

「至極もっともな疑問だね。だが、『彼』に警戒されて何も話してくれないとなると僕としてはお手上げになる。だから無害そうな君にお願いしたいのさ」

「…………」

「何か、迷うことでも?」


 ミドリは膝を組み、両手を握り込んだ。


「私……やっぱり、できないかも」

「ほう。どうしてかな」

「久良木先生とマキ先輩を疑いたくないの。二人のことを信じたいから……だから私のやろうとしていることが、もし二人のことを追い詰めるようなことになったら……」

「信じているからこそ、やる価値があると思わないかい?」

「え?」

「君はその久良木先生と、マキ先輩の二人の潔白を信じている。ならば自分で確かめるしかない。その結果二人が無関係であると証明されれば、君は裏切られることがない。少なくとも僕はそう思うがね」

「……そう」


 ミドリはしばらく口を閉ざしていた。


 エリとマキの顔が交互に浮かんでは消えて、そして本や映画の中でしか知らない〈ファントム〉の仮面が頭をよぎる。


〈ファントム〉の正体が二人のどちらかなど、信じたくない。


 ならばやるしかないのだろう。


「そうだね」と立ち上がる。


「道化さんの言う通りだよ。どこまでやれるかわかんないけど、二人のことを信じてるし、信じたいから」

「そうかい。人を信じられる気持ちは大きな財産になる。大切にしたまえ」

「変な言い回し」


 あは、とようやく笑い声が出た。道化も肩をすくめた。


 不意に訪れた沈黙の後、ミドリは道化に首を向けた。


「ねぇ、道化さん」

「なんだい?」

「道化さんは仮面が……〈マスカー〉が憎いの? おじさんみたいに」

「なぜそう思うのかな?」

「わかんない。そう思っただけ」


 再び、講壇に腰かける。


 あの事件の時の叔父の形相を思い返す度に、胸が締めつけられる。


 ダンが〈マスカー〉を憎んでいることはわかっていた。けれど、本当の意味でわかっていなかったのかもしれない。公衆の面前で拳銃を取り出すなど、そんな姿は見たくなかった――怖くもあった。


「そうだな」と道化はうなずいた。


「もしかしたら僕は心の奥底で仮面を、〈マスカー〉を憎んでいるのかもしれない。君の叔父と同じようにね」

「同じ……なのかな?」


 道化が怪訝そうに首を向けてくる。


「道化さん、私とアカネちゃん……もう一人、アオイちゃんって妹がいて。私たちには両親がいないの」

「ほう、そうなのか」

「五歳の時ぐらいだったかな。私たちのお父さんが……事故死したの。そしてお母さんはいなくなっちゃった。お父さんを追っかけて行方不明になったんだろうっていうのが、警察の見方だったの。でも……」

「君の叔父は違った、ということかな?」

「うん。おじさんは〈マスカー〉の仕業だって信じてる。〈マスカレイド〉っていう事件が起こる前から、〈マスカー〉の犯罪はあったみたいだから」

「だからあそこまで憎んでいるというわけか」

「うん。私たちのお母さんは、おじさんのお姉さんだったから」

「なるほどね。身内がそういった災難に見舞われれば、それもやむなしか。……それで?」

「それで、って?」

「僕と君の叔父とは、君から見て同じなのかな? 違うのかな?」

「……わかんない」


 ミドリは首を振った。


「ただ単に似ているだけなのかも。でも、やり方は全然違う。おじさんは刑事として〈マスカー〉を追っているけれど、道化さんは違うでしょう?」

「……まぁ、そうだね」

「『彼』を助けた時もそうだよ。道化さんは〈マスカー〉の仮面を剥がす力があるんでしょう? それならもしも〈ファントム〉が目の前に現れても……むやみに傷つけたり、殺したりなんかしないよね?」


 道化はすぐには答えなかった。


 そうさ、とでもなんでもいいから肯定してほしかった。


 しかし、道化は――


「約束はできない」

「え?」

「僕はあまり嘘をつきたくない。だから正直に言おう。……〈ファントム〉の力は未知数だ。どんな能力を持っているかわからない。〈ファントム〉が手段を選ばずに人に害なそうとすれば、僕としてもやり方を考えなくてはいけないだろう」

「そんな……」

「ミドリくん。ここだけの話、台舞高校以外でも〈ファントム〉の仕業と思しき事件が立て続けに起こっている。被害者はほとんどが学生だ。〈カオナシ〉にされたり、あるいはさらわれたり、もしくは……変死していたり。そのすべてが〈ファントム〉の仕業とは限らないが、その可能性は高いんだ」

「…………」

「だからなんとしてでも〈ファントム〉を止める。これ以上仮面の力を悪用しないようにね。……もしかしたら君には、酷な結果になるかもしれない」


 道化は指に力を込め、ぱちんと弾いた。


 ミドリは口を開きかけたが――何を言えばいいかわからなかった。


 道化の言葉、ダンのこと、エリやマキのこと、そして〈ファントム〉とその被害者。


 ばらばらに思える要素それぞれがもし、ひとつの線でつながっているのだとしたら――自分は一体、どうすればいいのか。


 一体、何ができるのか。


「降りるなら、今の内だよ」


 道化が言い放つ。


「これ以上深入りすれば、見たくないものを見るかもしれない。『オペラ座の怪人』――〈ファントム〉の素顔のようにね」

「…………」


 道化は立ち上がった。先ほどのカードキーをくるっと回し、講壇を下りていく。


 体育館の中央まで歩いたところで――「待って」と声をかけた。


 自分も講壇を下り、道化のところまで歩いていく。


「私、降りるなんて一言も言ってないよ」

「……本気かい?」

「言ったでしょ、久良木先生とマキ先輩を信じたいって。二人の無実を証明したいの。でも……」

「でも?」

「無実を証明した後は、協力できない……かも。そこまで付き合ったら、本当におじさんに怒られるから」

「それがいい」


 道化は振り返り、ミドリにカードキーを差し出した。


「潜入の日時はあらかじめ教えておいてくれ。〈ファントム〉が来ることが予想されるからね。君の身に何かあればいよいよ君の叔父は僕を許さないだろうし……さすがに二度も拳銃を突きつけられたくないんだよ」

「わかった」


 カードキーを受け取り、しっかりと握り込む。


 道化を見返し、「早い内がいいよね?」


「ああ、〈ファントム〉による被害をこれ以上広げたくない」

「じゃあ、今行こう。〈ファントム〉に勘づかれない内に」


 ほう、と道化は軽く身をのけぞらせた。


 ミドリは自分の言った言葉を確かめるように、「うん」とうなずく。


「私、こんな気持ちのままで久良木先生やマキ先輩と話したくないから。文化祭も劇の公演も近いから、きちんと気持ちに踏ん切りをつけたいの」

「なかなか度胸のあるお嬢さんだ」


「からかわないでよ」と苦笑する。


 それからミドリはすうっと息を吸い、細く長く吐いた。演劇部でよくやる発声トレーニングの見様見真似だが、そうすることで身が引き締まるような気がする。


 息を吐ききってから、カードキーを強く握り込んだ。


「行こう、道化さん」

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