第二章ー1「怪人の足音」
この日の引島家の朝は、静かだった。
誰もが無言で食事をしている。ミドリはうつむくように、アカネとアオイは気まずそうに、そしてダンは不機嫌をあらわに箸を持っている。昨夜の残り物である煮物にぶすっと刺しても、ミドリは注意しなかった。
「ねぇ、アカネお姉」
「なに?」
「どーしてみんな黙ってるの?」
「……気のせいでしょ」
「この前の事件のこと?」
アオイの発言に、ミドリもアカネもびくっと反応した。
この前――といっても、つい三日前のことだ。いじめを受けていた男子高校生が、仮面の力で復讐したという事件。
ミドリがダンにおそるおそる窺うも、ダンは無言を通していた。
「アオイちゃん、そういうことはあまり言わない方がいいよ」
「でも、ニュースになってるもん。クラスのみんなもウワサしてる。女子のみんなも不安になってるよ」
「気にしすぎだっての。どうせケーサツがなんとかしてくれるっしょ。ねぇ、おっさん」
アカネがダンに振る。おそらく、意図的なものだろう。
ダンはお茶を飲みながら、「期待するんじゃねぇ」
「警察ってもんは色々と面倒なんだ。過信なんかするもんじゃねぇんだよ」
「あっそう。おっさんのくせに弱気なんだね」
「……ふん」
ダンはそれ以上言い返さなかった。
再び、沈黙が訪れる。
アオイが「ごちそうさま」と小声でつぶやき、自分の皿を持っていった。ランドセルを背負い、「じゃあ、行ってきます」
「行ってら」
「おう」
ミドリも返事しようとして――アオイが手招きしていることに気づく。どうしたのかなと思いつつ一緒に玄関まで行くと、アオイがこっそりと耳元にささやいた。
「ミドリお姉、深入りしない方がいいよ」
「……え?」
「自分じゃ気づいてないかもだけど、ミドリお姉って危ういところあるから」
危うい、とは小学生にしては大人な言い回しだ。
ミドリは苦笑いし、「大丈夫だよ」
「アオイちゃんが思ってるようなことは全然ないから。何かあったらおじさんやアカネちゃんが助けてくれるし、アオイちゃんだっているしね」
「だったら、いいんだけど」
アオイはなおも不審の眼差しで見上げてくる。
ミドリは末っ子の頭を撫で、「行ってらっしゃい」
「今日はハンバーグにするから。お手伝いしてほしいから、早めに帰ってきてね」
「子供扱いしないでよー。……わかった」
「うん、行ってらっしゃい」
ドアが閉まり、ミドリはほっと肩を落とす。
それからミドリとアカネは支度を済ませ、ダンの方を振り返った。
「じゃあおじさん、行ってきます」
「行ってくるわ」
「……おう」
ダンはこちらを見向きせず、テレビを見ていた。
あれからダンは何も言わなかった。彼の性格上必ず何かしら文句をつけてくるだろうと覚悟していたのだが、その様子はなかった。
それが逆に不安になる。
ダンが何も言わないということは、簡単に漏らせない――それだけ事態が深刻化しているということにならないだろうか。
通学路を歩く傍らでアカネに伝えると、「気にしすぎだって」
「おっさんだって言ってたじゃん。ケーサツにも色々あるんだって。どうせ一般人には話せないとかその程度のことでしょ」
「それならいいんだけど」
「それよりもミドリ」
アカネが咎めるようにこちらを見てきた。
「あんた、あたしとクルミに黙って勝手に帰ったでしょ」
「う」
「あんなことがあった直後に危ないと思わないの? クルミなんか『心臓止まりそう』って言ってたわよ。不用心にも程がある」
「う、ごめん……」
「まぁ、無事だったからいいけど」
ぷい、とそっぽを向く。アカネのいつもの癖だ。それが彼女なりの不安の表れであることをミドリは知っていた。
「うん、ごめんねアカネちゃん」
「……別に」
「ミドリ、アカネ、おっはー!」
後ろからいつもの快活なクルミの声が飛んでくる。いつものように噂話を持ちかけてくるクルミに、ミドリは内心で安堵した。
それから三人で台舞高校へと向かい――校舎が見えてきたところで。
「おはよう、引島さん。桃ノ木さんも」
颯爽と歩いてきたのは、
「おはよっす、中条先輩」
「おはようございまーす!」
「お、おはようございます」
三人からのそれぞれの返事に、マキは気持ちよくうなずいた。
「みんな、ご機嫌いかがかしら?」
「どうもしねーっす。いつも通りっす」
「快調でっす!」
「えっと……いつも通りです」
「そう」とマキは三人と並んで歩き出した。
「引島さん……って言ったらややこしいわね。じゃあ、ミドリさん」
「は、はいっ!?」
「文化祭の舞台の公開はもうすぐなんだけど……どう思うかしら?」
「どう思うって、何をですか?」
「もちろん、このタイミングで『オペラ座の怪人』をやることよ。どうしたって〈マスカー〉を意識することになるだろうし、
「そうなんですか……」
「けど、私としては是非とも公開したいの。だってひき……いえ、ミドリさんの台本、魅力的なんだもの。みんなにも読んでもらいたいぐらい。あの台本を埋もれさせるなんて、もったいないと思わない?」
「はぁ。でも、私はそれでも……」
「……ミドリさん、あなたはそれでいいの?」
マキの目に険がこもる。
ミドリは反射的にうつむき、「それでいいと思います」
「みんなを不安にさせるぐらいなら、公開しない方が……」
「……そうね。確かにあなたの言う通りだわ」
でもね、とマキは言う。
「今度の舞台の公開のために、多くの部員が時間と情熱を費やしている。来年で卒業する人もいる。コンクールもあるからそこで良い成績を
「……はい」
はぁ、とマキが珍しく弱気そうなため息をつく。
「難しいものね。ごめんなさい、私が『オペラ座の怪人』に強いこだわりを持っているからこんなことを言ってしまうんでしょう。なんだかあなたを責めたみたいで、あまりいい気持ちがしないわ。……本当にごめんなさい」
「いえ、そんなことは!」
ぶんぶんと手を振っている内に、いつの間にかゲートへとたどり着いた。ミドリたち四人がIDカードで通過すると、その先には持ち物検査があった。ただ、警備員と教員の数が増えており、一様に鞄の中身をチェックしている。
「やっぱり、予想通りね」
マキが言うと、三人は彼女の横顔に首を向けた。
「あんなことがあった後だもの。仮面をはじめ、危険物の持ち込みがないかどうかを一層警戒するのは当然のことよ。ほら、久良木先生もいる」
「げ」
「まじ?」
「本当だ……」
マキの言葉通り、エリは数人の教師と警備員と共に検査を行っている。エリの方に並んでいる生徒の数は他の列と比べ、明らかに少なかった。
「時間が惜しいわ、行きましょう」
マキの発言に、アカネもクルミも仕方なくついていった。
やがて――エリと対面すると、彼女はいつもの無表情で「おはよう」と告げた。
「今日は中条さんも一緒なのね」
「おはようございます、久良木先生」
「時間が惜しいわ。すぐに鞄の中身を見せてくれないかしら」
四人はそれぞれうなずき、手早く鞄を開封した。エリは目を走らせ、「うん」と首を縦に振る。
「全員、問題なし。じゃあもう行っていいわ」
え、とアカネとクルミが素っ頓狂な声を上げる。すでにエリは別の生徒の方に視線を移しており、本当にそれ以上何かを言う気配がない。
エリから離れ、校舎に向かう途中で、「なんだか気味が悪いね」
「久良木先生、いつもよりピリピリしてる感じ。無表情だけど」
クルミの言葉に、「かもね」とアカネが同意する。
「やっぱ、あの事件が尾を引いているんでしょ。さすがの久良木も平常心ってわけにゃいかないか」
「あの事件の〈マスカー〉、うちの生徒だったんでしょ? どうやって仮面を持ち込んだんだろうって噂が流れてるんだよね」
「また噂ぁ?」
「ひ、引っ張らないでしょアカネぇ。あたしじゃないもん、みんなが言ってることだもん」
「そういうのがアテにならなのよ……!」
ぎゅいー、とさらにクルミの頬を引っ張る。
「そこまでにしておいた方がいいわ」というのはマキの弁だ。
「事件がなんであれ、私たちには関係のないことよ。どうせ大人たちの間で丸く収まることだもの」
「関係ない……」
ミドリがぽつりとつぶやくと、マキが一瞥をよこす。
「だってそうじゃない? 被害者のことも加害者のことも私たちが知っている以上のことを知ってどうなるというの? すでに終わったことにかかずらっていないで、私たちは別のこと――目の前のことに取り組むべきよ。そう思わない?」
「中条先輩って、意外とドライなんすね」
「うーん、あたしとしてはもうちょっと知りたいんだけどなぁ」
クルミが冗談交じりに言うと、マキはいきなり彼女に顔を寄せた。思わず後じさりしたクルミのあごをつまみ、くいっと持ち上げる。
「いいこと、桃ノ木さん。過度な好奇心は身を滅ぼすわ。あなただって〈マスカー〉に――〈ファントム〉にさらわれたくはないでしょう?」
「……は、はい……」
ぱ、とマキは手を離す。それからにっこりと微笑み、「どうかしら?」
「今度の劇の台詞をちょっともじってみたんだけど。上手い?」
「あ、は、はい! すげー上手いっす! しょんべんチビりそうでした!」
「クルミ、その言い方やめな」
「……あら、いけない。もうこんな時間」
マキは腕時計を確認し、「そろそろ行かなくちゃ」
「ちょっとした打ち合わせがあるの。大事なことだからやっておかないとね。……それじゃあ三人とも、ごきげんよう」
マキは小走りで校舎へと赴いた。
ぶはー、とクルミが固い息を吐き出す。
「めっちゃ怖かった……」
「でも、中条先輩の言うことももっともよ。あたしたちが深入りしたってロクなことにならないもの。ねぇ、ミドリ?」
「あ、うん……」
首をぎこちなく動かす。いつの間にかマキの背を目で追っていたことに、アカネとクルミは特に言及しなかった。
三人は再び歩き出す。
ミドリは二人から一歩遅れて歩いていた。頭の中にあるのはエリとマキのこと、そして先日の道化との会話のことだ。
道化はエリとマキのことを疑っている。
そんなわけない、と首を振る。
たとえ、わずかであっても二人にそんな疑念を抱きたくはなかった。
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