間奏

 図書室にて、一人の女子が優雅に足を組んでいた。


 手にしている本は『オペラ座の怪人』。何度も読み込んだのか表紙は色あせており、ページにもしわがついている。


 彼女はゆったりとページをめくり、時おり官能的な息をついた。


 何度も読んでいるのに、飽きない。


 それがこの本に対する率直な感想だった。


 最初から悲恋の運命を背負った怪人〈ファントム〉。顔に怪我を負った彼はその才能を明るみに出すことができず、暗いオペラ座の地下で美しい台本を書き上げる。その内容は何も知らないヒロインを輝かせ、やがて二人はドラマティックな出会いを果たす。


 しかし、その先に待つのは破滅。


 決して報われない恋。


〈ファントム〉の立場は自分と重なるところがある。幸いというべきか顔に怪我は負っていないが、叶わない恋の運命にあることは自覚している。


 許されざる恋。


 だからこそ自分はこの作品に――〈ファントム〉にどうしても惹かれるのだろう。


 カーテンから差す陽光に、人型の影が差した。顔を上げるまでもなく、女子にはその人物が誰なのかわかっていた。


「ずいぶんと遅かったのね」

「————」

「そうなの。後始末ね……彼は始末できたの?」

「————」

「やっぱり。あの状況では難しいと思っていたわ。でも、大丈夫でしょう? 仮に彼の口からあなたのことが出ても、あなたが誰なのかを突き止めるのは難しい。だって、それが〈ファントム〉でしょう?」

「————」

「買いかぶり? そうかもしれないわね。まぁ、いいわ。あなたを待っていたらこんな時間になっちゃったの。色々と些事もあったし、少し疲れてしまったわ」


 女子は立ち上がり、本をテーブルに置いた。


 そして、マントを羽織って仮面をつけた人物――〈ファントム〉に体を預ける。〈ファントム〉の胸の高さで両手を握り、女子は恍惚の眼差しで顔を上げた。


「はぁ……」


〈ファントム〉の仮面は顔の上半分だけ覆われている。口は無防備といえるほど露出していて、女子はためらいなく顔を近づけた。


 長らく唇を重ねる。


 息を吐きながら口を離し、女子は再び〈ファントム〉の胸に顔をつけた。


「本当に素敵。凡庸だけど、言葉にできないぐらい。ねぇ……あなたはどうして、そんなに魅力的なのかしら?」

「————」

「そうね、誰しも自分の魅力は自分では気づけないものね。あなたのことも、かつてあなたが愛した女性のこともそう。彼女は自分の才能に気づいていなかった。あなたが見出さなければ、ずっと脇役のままで終わっていたでしょうね」

「————」

「私? わからないわ。こう見えて学績はかなりいいし、評判も悪くないもの。けれどそんなものはあなたの存在の前ではごみ当然だわ。私にはあなたがいればいいの。わかるでしょう?」

「————」


〈ファントム〉の腕が動き、女子を抱きしめる。


 女子は目をつぶり、されるがままになっていた。〈ファントム〉の手が自身の体を這う度に体がぴくんと震える。


 胸も、腰も、足も、この体は全て〈ファントム〉のもの。


 甘美――かつ、背徳的な快感だった。


〈ファントム〉は次に女子の唇を求めた。二回目の接吻は熱く激しかった。骨までとろけそうな味わいの中、女子は抵抗の素振りひとつ見せない。


「はぁっ、はぁっ……」


 熱のこもった吐息が口から漏れている。一瞬恥ずかしそうに顔をそむけたが、〈ファントム〉は女子のあごに手を伸ばし、仮面の方に近づけた。何度も接吻を繰り返し、ようやく解放する頃には女子の足には力が入っていなかった。


 膝から崩れ落ちそうになるところを、〈ファントム〉が支える。


「今日は……激しいのね」

「————」

「道化者? ああ、彼のことね。……彼って言った方がいいのかしら? 大丈夫よ、あなたの敵なんかじゃないわ。それはあなた自身がよく知っているでしょう?」

「————」

「仮面を剥がす力……確かに厄介ね。邪魔をされてはちょっと困るわね」

「————」

「どんな考えがあるの?」

「————」

「なるほど、それならうまくいくかもしれないわね。彼が〈マスカー〉である以上、どうしてもそれは避けられないものね」

「————」

「どんな懸念?」

「————」

「それはないわ。考えすぎ、杞憂よ。あなたはとても機知に富んだ人だけれど、少々発想が飛躍しすぎるところがあるわ。……そういうところも素敵だけど」

「————」

「いいえ、本心から言っているのよ。あなたは私が会った中でも至高の存在。誰にもあなたの真似はできない。だってあなたは〈ファントム〉だもの」

「————」

「理由になってない? そうかもね。こんなことを言ったら怒るかもしれないけれど、あなたは大仰なのに臆病なのよね」

「————」

「あら、否定しないのね。そういうところも魅力的よ」

「————」

「ああ、そうね。といっても大したニュースになっていないわ。時間の問題でしょうけれど、どうせ今回もすぐに別の情報に押し流されるだけ。そういうものでしょう、世間って」

「————」

「そうなの。残念だわ。もう少しあなたと一緒にいたかった」

「————」

「ええ、あなたもね」


 陽が沈むと同時、〈ファントム〉の姿は闇に消えた。


 女子はすうっと指で唇を撫で、たっぷりと感触を確かめる。〈ファントム〉と接吻したあの熱さが、まだ尾を引いている。


「本当に素敵よ、〈ファントム〉」


 そう口にしてから、女子は本を手に取った。


 それを鞄にしまい込み――図書室を後にした。


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