第一章ー6

 多目的施設は立ち入り禁止となり、この日は休校となった。


〈マスカー〉となった男子は意識不明。そして彼によって危害を加えられた三人の男子はいずれも骨折などの重傷。彼らが救急車によって搬送されていくのを、生徒たちは落ち着かない様子で見送っていた。


 教師たちも困惑する中、一番判断が早かったのは久良木くらきエリと、中条なかじょうマキである。演劇部の顧問と今度の舞台の主演ということもあり、二人の息は合っていた。エリが学園長から休校の指示を仰いで教師に伝え、マキがそのフォローをする。


 そのおかげで混乱は最小限に収まった。


「やっぱりさ、久良木センセーとマキ先輩ってデキる人だよねぇ」というのが、クルミの弁である。自分が二人のことを〈ファントム〉ではないかと疑っていたことなど、忘れている様子だった。


 ミドリはアカネとクルミには内緒で、体育館へと赴いていた。


 電灯は点いていないが、窓からの明かりで十分見える。


 ミドリは講壇前の小さな階段を上がり、周辺を見回した。


 物音ひとつ聞こえない。気配も感じない。

やがてミドリは諦めたように階段に腰を下ろした。はぁ、とため息が口から漏れる。


「やっぱりいるわけないか……」

「誰を探しているのかな?」


 ぎょっと振り返ると、背後に道化が立っていた。仮面にくり抜かれたアーモンド形の黒い目は、まっすぐにミドリを見下ろしている。


「道化さん……」

「君の中ではすっかり、その呼び方が定着したようだね。まぁ、構わないが」


 道化は講壇に腰を下ろす。片膝を立て、もう一方の足をぶらりと垂らした。


「さて、何が聞きたいんだい?」

「え?」

「とぼけないでおくれよ。わざわざ僕のことを探していたということは、何かしら聞きたいことがあったんだろう? そうでなきゃ普通、〈マスカー〉に近づこうだなんて思わないはずさ」

「……そうだね」


 ミドリは心もちうつむいた。


「ねぇ、道化さん」

「なんだい?」

「どうして彼を助けたの?」

「おや、君の目からはあれを助けたというのかな?」


 彼、とはもちろん先ほど〈マスカー〉となった男子のことだ。


「なんだかむやみに暴れていたように見えたから」

「ふむ、なかなかの観察眼だ。正解だよ」

「……暴走していた、ってこと?」

「それも正解だ。仮面にはそういうリスクもある。未熟な者が使おうとすれば、その力に呑まれるさ。ナイフや拳銃を持つと自分が強くなった気がして、ついつい振り回してしまうのと同じようなものかな」


 道化はすうっと仮面を撫でる。


「ただ、ナイフや拳銃と仮面とでは違う。仮面は使い手の心をそのまま映し出す。君も見ただろう。彼の背中から伸びた腕を。どういった心理状況によってあの仮面が作られたかは知る由もないが、おそらくあの腕が彼なりの心の現れだったのだろうね」

「心……」


 先ほどの光景を思い出す。


 道化の言葉をそのまま信じれば、仮面を剥がすという力は彼の心を反映しているということになるのではないか。


「道化さんは、誰かの仮面を剥がしたいって思ったの?」

「なぜ、そう思うのかな?」

「そうじゃなきゃ、あの力の説明がつかないもの」

「……ふむ」


 道化は仮面の下部の先端をつまんだ。


 ミドリは両膝を抱え、道化の返答を待った。真面目に答えてくれるかどうかはわからないが、あまり期待しないことにした。


「僕には妻がいたんだ」

「…………えっ!?」


 何気ない一言だったので、危うく聞き逃すところだった。


 道化は続ける。


「どんな時でもよく笑う人だった。嬉しい時もそうだし、悲しい時、怒った時、寂しい時もね。そんな彼女の存在に僕は励まされていたものだよ。僕が、笑えないっていう病気を抱えてしまうまではね」

「笑えない……?」

「というよりは、顔の筋肉が一切動かせないんだ。想像できるかい、マネキンみたいに皮膚が凍りついた自分の顔を。薬、リハビリ、メンタルトレーニング……あらゆる方法を試してみたが、ダメだった。妻は毎日笑いかけ、なんとか僕の笑顔を引き出そうと自らピエロの服装に扮したりしていた。下手くそな手品やダンスで、僕を笑わせようとしたんだよ」

「それでどうなったの?」

「ダメだった。それでも僕は笑えなかった」


 道化は講壇から反対側の――体育館の壁にかかっている大きな時計を見上げた。


「それで、次に彼女はどうしたと思う?」

「……まさか、仮面を?」

「そう、その通り。彼女はどこから手に入れてきたのか、仮面を顔につけたんだ。僕を笑わせたいという一心でね」


 ミドリはその光景を想像してみた。


 例えば――仕事帰りに妻が仮面をつけていたとしたら。相当驚くだろう。そして、そんなもの剥がせ、捨てろと怒るかもしれない。けれど自分のために仮面をつけているのだとわかったら、責めるに責められなくなるのではないか。


「だが、その仮面は出来損ないだった」

「出来損ないって……?」

「副作用があったんだ。ある日、妻の顔から仮面が剥がれなくなった。妻はずっと笑い声を上げて、僕まで気が狂いそうになったよ。それから僕はどうしたと思うかい?」

「…………」


 ミドリの胸に重いものがのしかかる。


「自分も、仮面を手に入れたんだね」

「そう。妻の仮面を剥がすためにね。ただ、手遅れだった」

「え?」

「僕が仮面を手にしたその日に、妻は死んでいたんだよ。顔の皮膚が剥がれた状態でね」


 ミドリは絶句した。


 まさか、それが〈カオナシ〉の詳細なのだろうか。


「それから僕は道化になった。仮面を売買している者を追った。……主に外国でね。だからこないだ日本に来たばかりで、この国の情勢には今ひとつ疎いんだよ。まさか、〈マスカー〉があそこまで憎まれているとは思わなかったなぁ」


 ダンのことを言っているのだろう。


 ミドリとしては彼の行いについて説明する外ない。


「あの、道化さん。あの人……道化さんに拳銃を突きつけた人は、私の叔父おじなの」

「そうなのかい」

「おじさんは仮面と〈マスカー〉が大嫌いで……私たちにもいつも〈マスカー〉には近づくな関わるなってうるさくて。でも、悪い人じゃないの。ただ私たちのことを心配してくれているだけなの」

「わかっているさ」


 道化がひらひらと手を振る。


「問題はそのことじゃない。この近辺で仮面をばらまいている奴がいるということだ。僕はそいつを追っている」

「——〈ファントム〉のこと?」

「〈ファントム〉? 『オペラ座の怪人』のことかい?」

「うん、知っているの?」

「有名だからね。もちろん、数ある作品の中では、の話だが。そうか、そいつは〈ファントム〉と名乗っているわけか。なるほど」

「もし、〈ファントム〉と出会ったら……どうするの?」


 決まってるさ、と彼は肩をすくめた。


「ただ、少々手詰まり感がある。何しろ手がかりが掴めなくてね」

「そうなんだ……」

「うん、そこでだ。君に協力してもらいたいと考えている」

「へ?」

「僕は〈ファントム〉とやらの正体を暴きたい。そして君たちこの学校の生徒たちに、危害が及ばないように立ち回る必要がある。そのためには協力者というか――裏方が必要なんだよ」


 裏方。馴染みのある言葉だ。


 大道具や小道具の制作、舞台のセッティング、ライト、音楽など――その活動は多岐に渡る。決して表には出ないだが、もう一人の役者。決して欠かせない要素。


「いや、裏方は失礼だったかな……」


 腕を組み、うーんと唸る道化。


 ミドリはすくっと立ち上がり、「道化さん」


「私ね、今度の劇の脚本を書いているんだ」

「ほう」

「脚本を書く前は裏方やっていたの。適当に台本にチェックを入れていたら久良木先生に見つかっちゃって。怒られると思っていたんだけど、先生は怒らなかった。代わりに、次の週までに一本書いてみてくれって」

「ふむ、それでどうなったのかな?」

「私が脚本を担当することになったの。でも、裏方でいいっていう気持ちもあったから複雑だった」

「君は舞台に立つ気はないのかな?」


 ううん、と首を振った。


「私なんかじゃ全然ダメ。マキ先輩みたいに綺麗でスタイルがいいわけじゃないし。地味だし、取り柄ないし。自分で言うのもなんだけど……中途半端なの。だから裏方でよかったのに」

「でも、君は脚本を書いている。それはなぜだい?」


 ミドリは少し考え――「やってみたかったから、かもしれない」


「それでいい。自分のことは抜きにして、やりたいと思うならやってみるのが一番いいのさ。それに、君は自分のことを過小評価している」

「そうかな……?」

「君には勇気がある。相手が叔父とはいえ、拳銃を突きつけられて堂々としていられる高校生なんかそういない。そこは誇りたまえ」

「誰に誇ればいいのかな……?」


 苦笑すると、道化も肩を揺すった。


「まぁ、それはさておいて話を戻そう。僕と手を組む気はあるかな?」

「……具体的に何をやるのかわからないんだけど」

「答えはイエスというわけだね、今はそれでいい。僕としては大いに助かるよ。まさかこの姿で関係者から話を聞くわけにもいくまい」

「一応、自覚あるんだね……」


 でも、とミドリは首を傾げる。


「どうやって〈ファントム〉を追うの? 私も噂でしか知らないんだよ?」

「見当はつけてある。二人ね」

「え、二人? それって、誰?」


 道化はもったいぶるようにうなずき、言い放った。


「久良木エリと中条マキ。そのどちらかが〈ファントム〉だ」

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