第一章ー5

〈マスカー〉。


 その名は十年前に起こった〈マスカレイド〉という事件に由来する。


 異能の力が込められた、仮面をかぶった犯罪者たちの俗称。


 その〈マスカー〉による事件の件数は年々増しており、さらには使用者の低年齢化も進んでいるという。つまり、まだ十代の若者が〈マスカー〉として事件を起こすというケースが多発しているのだ。


 彼らは言う。「今とは違う自分になりたかった」と。


 ニュースキャスターや評論家はこの発言を取り上げ、若者たちの変身願望について言及した。若者たちは今の自分を嫌悪しており、今とは違う自分になりたいという願望が非常に強いという結論だ。とりわけ自尊心や自己肯定感が低く、学業でも大した成績を修められない生徒に見られる傾向ではないか、という考察もあった。


 ただ、そういった考察は現状あまり意味を持たなかった。


 世の中が危惧しているのは〈マスカー〉の脅威と低年齢化だ。〈マスカレイド〉から十年経っても警察はなんら有効な手を打てていないのが現状である。


 ではどうやって逮捕しているのか。


 ひとつは〈マスカー〉自身が仮面を外し、自首してきた時。


 そしてもうひとつは十数人の警官で、力押しで取り囲んだ時。この場合で無事だった者はほとんどおらず、中には死者も出た。


〈マスカー〉の脅威は止まるところを知らない――




「何を呆けているのかな、君は」


 その言葉で、ミドリははっと目を見開いた。眼前では背中から巨腕を生やした〈マスカー〉が四つん這いになっていて、攻撃の態勢に入っている。その巨腕は蛇のようにしなり、道化と――そしてミドリたちに迫ってきた。


「おっと」


 道化はミドリとクルミの手を引っ張り、素早く横に移動した。空を切った〈マスカー〉の一撃は多目的施設のドアをたやすく粉砕した。ガラス張りのドアが砕かれる様を目の当たりにしたミドリは言葉を失う。クルミはといえば、いつの間にか気を失っていた。


「立てるかい?」


 道化の言葉に、ようやく我を取り戻す。


「な、なんとか……」

「それならいい。今すぐその子を連れて逃げるんだ。さすがの僕でも守りながら戦うのは骨が折れるのでね」


 守りながら戦う――


 彼は敵ではないのだろうか。


「あの、あなたは一体……」

「今はそれを説明している時間はないかな」


 そう言うと道化は衣装の裾に手を入れ――カラーボールを取り出した。とっさにコンビニに置かれているものを連想したが、それは指と指との間に挟まるほど小さい。


 左右に四つずつ。色はすべて青。


 まさかこれであの〈マスカー〉に対抗するつもりなのか。


「——!」


〈マスカー〉が腕を振るった。


 直線的な軌道の先――道化は臆した様子もなく、その拳にカラーボールを投げつけた。


 ぱぁん、と弾けると中から液体が飛び出し、〈マスカー〉の腕を汚す。そればかりか動きが極端に鈍くなり、道化の眼前でぶるぶると震えた。ただのカラーボールではなく、非常に粘度の高い液体が入っているようだ。


「行きたまえ」


「は、はい!」


 クルミを抱え、粉砕された入り口からなんとか外に出る。廊下から構内――生徒たちが集まっているところまで逃げると、ちょうど道化と〈マスカー〉が多目的施設から裏庭へと飛び込んでいるところだった。


「……!」

「さて、おとなしくしてくれる気は……ないかな」


〈マスカー〉は巨腕を地面に擦りつけ、なんとか液体を剥がそうとしている。しかし一向に取れる気配がなく、余計に広がっていくだけだ。


 業を煮やした〈マスカー〉は汚れを取るのを諦め、無理やり腕を動かした。三メートルほど離れた位置の道化に向け、腕をしならせる。


 横なぎの一撃を道化はひと跳びで回避した。


 続けざまに〈マスカー〉が拳を飛ばす。


 だが道化はもう一度軽やかに跳躍し――そればかりか、その拳の上に乗ってみせた。


 ほとんど曲芸ともいえるその一連の動作に、ミドリは目を奪われていた。


「それで終わりかい?」

「……!」


〈マスカー〉は拳を引き、今度は地面に突き立てた。バスケットボール大もある土塊を、ほとんどやけくそのように道化に投げつける。ひとつのみならず、何個も。


 ただし、道化にはひとつも命中しなかった。


 ステップし、身を屈め、あるいは回転し、身をしならせる。それと同時に〈マスカー〉への距離を詰めていく。


「……!」


〈マスカー〉は後じさりした。


 先ほどから使っていない――本体の両腕が震えている。背中から伸びる腕も。

さらに塗料の硬化が進み、ますます動きが鈍くなる。とどめに道化からカラーボールを投げつけられ、いよいよ〈マスカー〉の動きが止まった。


 道化は優雅に歩み寄る。


〈マスカー〉の仮面に手を触れ、「さぁ、全てを――」

「白日の下に晒せ」


 勢いよく仮面を引き剥がす。


 まだあどけない少年の素顔があらわになり――同時に背中の腕に一瞬にして亀裂が走った。

 

 腕だけではない。道化の手に握られている仮面も同様で、ほぼ同じタイミングで白色化していく。


 ぱぁんと仮面と腕が瓦解し、周辺に欠片をまき散らした。


「すごい……」


 ミドリは思わずつぶやいていた。


 道化は手に残る仮面の残滓を見やり、それから軽く払った。それからこちらの方に首を向け、気楽そうに歩いてくる。


 ミドリの周辺にいる生徒たちは一気に身を引いた。

ただしミドリだけは道化を注視している。気絶しているクルミをその場に寝かせて立ち上がり、一歩進み出た。


 道化は肩をすくめ、「怪我はないかい?」


「あ、はい。道化さんは……」


「見ての通りさ。彼の方も大した怪我はない」


 肩越しに振り返る。


 その視線の先には先ほどの〈マスカー〉——仮面を剥がされた男子が地面にうつ伏せになっていた。ぴくりとも動いていない。

 

 どうやら気を失っているだけ、らしい。

 

 彼の言葉は嘘ではなかった――


「むしろ彼の犠牲者になった三人の方が重傷だ。すぐに救急車を呼ぶ方がいい」

「そう、ですか……」


 もう一歩進みかけた時に――けたたましいサイレンの音が聞こえた。急速に近づいてくるその音に、ミドリはただならぬ不安を覚える。


「ミドリ、ミドリぃ!」


 案の定、遠くから叔父の声が聞こえてきた。それから間を置かずして、全力で駆けつけてくるダンの姿が見えた。彼と目が合うや、ダンはわき目も振らずにミドリに突っ込み――全力で抱きしめた。


「無事でよかった! 怪我はないか!? 一体何が起こった、説明しろ!」

「ちょ、ちょっとおじさん! 苦しい……!」


 ばっとダンはミドリから体を離し、「アカネは!?」


「アカネは無事なのか!?」

「無事だっつーの、おっさん」


 生徒たちをかき分け、アカネが出てきた。赤いフレームの眼鏡越しにダンを見るその目は、呆れの色が浮かんでいる。


「恥ずかしいからやめてよ、おっさん。ここ、どこだと思ってるのさ」

「どこだって……台舞だいぶ高校だろ?」

「わかってんならさっさとミドリを離して。それから救急車を呼んで。それと……」


 アカネが疑るような目つきを道化に向ける。


 ダンは同じようにアカネの視線の先を見て――硬直した。ようやく道化の姿を確認したダンは、わなわなと震える。


「ふむ……」


 道化は指で仮面の下部をなぞり、事の次第を見守っている様子だった。


 いけない、とミドリは反射的に息を呑んだ。


「あの、おじさん! これはね……」

「ミドリ、離れてろ」


 ダンはミドリを押しやり、それから腰に手を伸ばした。ためらいなく拳銃を引き抜くと、生徒たちが一斉にざわついた。


 だが、ダンは構わずその銃口を道化に向けた。

 

 道化は怖気づくこともなく、平然と見返している。


「てめぇ、〈マスカー〉だな」

「そうなるね」

「変てこな格好をしやがって……ピエロのつもりか、ああ?」

「細かい言い方になるが、ピエロではない。道化だよ。それに、これでも僕は真面目にやっているつもりなんだがね」

「ほざくな。いいか、その場から一歩でも動いてみろ。でなきゃ……」


 引き金に力を込め――ダンの顔がこわばる。


 銃口の先にミドリが立ちはだかっていた。彼女の両手は真横に開かれ、きゅっと口を一文字に結んでいる。


「おじさん、やめて」

「ミドリ……!」


 ダンはとっさに銃口を下げた。


 ミドリは体が震えているのを自覚しつつも、言わずにはいられなかった。


「道化さんは、私たちを助けてくれたんだよ」

「だがな! そいつは〈マスカー〉だぞ!」

「助けてくれた人に、〈マスカー〉も何もないよ。それよりもおじさん、周りをよく見て」

「なんだと……」


 言われ、ようやくダンは周囲に目を走らせた。気絶している男子が四名。うち三人は重傷だ。さらには多目的施設も破壊されている。


「……その〈マスカー〉がやったのか?」

「違うよ」

「じゃあ、誰がやったってんだ」

「あそこで気絶している彼がやったの。背中から腕を生やして……〈マスカー〉として暴れていたの」

「あたしも見てたよ」


 横からアカネの声が飛んでくる。


「そこの男子があっちの男子三人をボコボコにしてたみたい。で、そのへんちくりんな……道化だっけ? そいつが〈マスカー〉の仮面を剥がしたってわけ」

「仮面を剥がす〈マスカー〉だと? 聞いたことねぇぞ」

「あたしだってそうだよ。それよりもおっさん、さっさと銃を引っ込めて」

「…………」


 ダンはなおも警戒の色を隠そうとせず、ミドリの肩越しに道化を睨んでいた。


 そこに――


「せんぱーい、せんぱ――い!」


 間の抜けた声が割って入り、ダンの顔が引きつった。手を振りながら駆けつけてきたのは二十代後半の、スーツを着た男性だ。


「もー探しましたよ、先輩。まーた一人で突っ走っちゃうんだから」


 するとその男性は現場を見――目を丸くした。


「……先輩、何をしているんですか?」

「見りゃあわかるだろ。〈マスカー〉に……」

「いやいや、先輩。そこの人、先輩の姪御めいごさんでしょうが。なんで銃を向けているんですか? 物騒じゃないですか」


 はっとダンは気づき――それから渋々と拳銃を腰に戻した。


 ミドリはようやくほっと息をつき、道化の方を振り返る。


「うーむ」と道化は短く唸った。

「どうも話が面倒なことになってきたようだ。とりあえず、僕はここで退散するよ」

「お、おい待て! てめぇ逃げる気――」


 ダンの制止に構わず、道化は白色のカラーボールを取り出し――それを地面に落とした。ぼふんと一瞬にして白煙が噴き出し、道化の周囲を包んでいく。


「くそっ、小細工を――!」


 ダンがミドリの横を走り、ぶんぶんと腕を振る。しかし、白煙が空気に紛れてかき消える頃には道化の姿はどこにもなかった。


「……くそ、逃げられたか」


 ダンが毒づき、先ほどまで〈マスカー〉だった男子に近寄る。身を屈め、首筋に手をやり、「生きているか……」とつぶやく。


 それから重症の三人にも目をやり、「二井川にいがわぁ!」


「緊急事態だ、救急車を呼べ!」

「あ、はい。えーと、何台呼べば……」

「見ればわかるだろうが! さっさと呼べ!」

「はーい!」


 間延びした返答に、ダンが舌打ちする。


 ミドリは一部破壊された多目的施設と、〈マスカー〉だった男子とを見比べる。そして彼が傷つけたと思しき男子たちにも。


「ミドリ」


 振り返ると、すぐ近くにアカネが立っていた。

「あんた、あの〈マスカー〉の知り合いなの?」

「……うん、そうなるのかな」

「わかってんの、あんた。〈マスカー〉になんて関わってもロクなことないよ」

「……わかってる」


「どうだか」とアカネはぷいと顔を向けた。


 ミドリはうつむきながら、「クルミちゃんは?」


「保健室に連れてった。怪我とか特にしてないみたいだし、たぶん気を失っているだけっしょ」

「そっか、よかった……」

「ちっともよくねぇぞ」


 ダンが怒りをあらわにのしのしと歩み寄ってくる。


「ミドリ、俺はいつも言っているよな? 〈マスカー〉になんか関わるなって」

「…………」

「仮面は危険な代物なんだ。銃やナイフなんかよりよっぽどな。あの道化野郎の目的がなんであろうが、〈マスカー〉は全員逮捕する」

「あの道化さんは悪い人じゃないよ」

「…………」


 無言で見つめ合う。


 先に目をそらしたのはダンで、それから二井川という男性のところに向かい――なぜか彼を殴りつけた。

 

 あの道化は悪い人ではない――

 

 自分の口からそう発せられたことに、ミドリは内心驚いていた。ダンの前に立ったこともそうだ。彼に反抗するなんて、今までの人生で初めてかもしれない。

ダンの言いつけには守っているつもりだったが、これだけはどうしても譲れなかった。

 

 後で叱られるか。

 

 先のことを考えると憂鬱だったが――ひとまずはあの道化が無事に逃げられただけでもよしとしよう。

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