第一章ー4

「ねぇ、どう思う?」

「どう思うって?」


 多目的施設の中にあるコンピュータールームへの移動の際、クルミがこっそりと喋りかけてきた。


「もちろん、〈ファントム〉のことだよ。久良木先生は被害者とだけ言っていたけど、わたしが思うに被害者の女の子は〈カオナシ〉になっていたんじゃないかな」


〈カオナシ〉——それは文字通り、顔をなくした人間のこと――とされている。テレビでもネットでも、その詳細は明かされていないのである。のっぺらぼうみたいになっているのか、あるいは顔の皮膚が剥がされた状態になっているのか、はたまた仮面をつけたまま眠らされているのか……いずれにしても憶測にすぎない。


 ミドリは真に受けすぎないよう、「またまたぁ」と手を振った。


 しかし、クルミは興奮気味で話を続ける。


「わたし、〈ファントム〉は久良木先生なんじゃないかって思ってるんだ」

「ええー?」


 あり得ない、というニュアンスで言ったがクルミは止まらない。


「男か女かもわからない。でも、〈ファントム〉っていうか『オペラ座の怪人』のことは知ってるんだよね? 学校の女子を積極的に狙っているってことは、〈ファントム〉は学校の関係者だって思わない?」

「それはちょっと飛躍しすぎなんじゃないかなぁ……」

「でもねわたし、もう一人だけ目星をつけてる人がいるんだ」

「え?」

「ほら、あれ……」


 そう言って指さしたのは、多目的施設からある女子が出てくるところだった。友人たちに囲まれており、優雅に微笑んでいる。


 腰まで届く黒髪に白い肌。細い顔立ちに薄い眉。滑らかな曲線を描く足には黒のストッキングを履いており、それがより一層白い肌のきめ細かさを強調している。


「マキ先輩のこと?」


 ミドリは怪訝そうに尋ねた。


 中条なかじょうマキ。三年生。演劇部の部長であり、今度の公演の主役でもある。語学堪能、眉目秀麗、成績優秀、加えて誰もが羨む美貌。さらには人当たりもよく、男女関係なく人気を集めている。おまけに毎日のように告白されているらしい(ちなみに情報源はクルミ)。


「そうそう、そのマキ先輩」

「ありえないよ。マキ先輩がそんなことするわけないじゃない」

「そうかなぁ……」


 言っている内に、マキたちとすれ違った。


 不意に――後ろから「引島さん」と声がかかる。聞き慣れている声だったので、相手がマキであることはすぐにわかった。


 マキは友人たちから離れ、優雅に歩み寄る。


「脚本の手直し、終わったのかしら?」

「あ、はい。ギリギリになっちゃってすみません」

「それならいいの」と微笑む。

「私、引島さんの書く脚本が好きでついつい読み込んじゃうの。しかも今度は『オペラ座の怪人』でしょう? どんな風に感情移入できる物語に仕上げられるか、とてもとても楽しみにしちゃって」

「マキ先輩も、『オペラ座の怪人』ご存じなんですね」

「当たり前でしょう? 過去、いくつもの作品が『オペラ座の怪人』にちなんだ物語を作り上げてきた。マンガでも映画でも小説でもね。私はそういったものを逐一チェックしているのよ」

「わぁ、好きなんですね!」

「ええ。ミステリアスだもの。熱情を持ち合わせていながら、悲哀を背負った異形の怪人。いち役者としては心がときめくお話よ」


 熱くなりかけ――ふと、マキははっと目を丸くした。


「ああ、ごめんなさい。私としたことが長話をしてしまったわ」

「いえ、大丈夫です。マキ先輩が今度の劇に力を入れていること、よくわかりましたから」

「それならいいんだけど……」


 マキの友人から呼ぶ声がする。「今行くわ」と応え、体の向きを変えた。


 肩越しにミドリを見やり、「引島さん」


「あなたの脚本は素晴らしいわ。久良木先生だって褒めているわよ。だからもっと自信を持ってね」

「あ……ありがとうございます」

「それじゃあね」


 たったった、と軽快なリズムで友達と合流していく。


 その後ろ姿を目で追いながら、「やっぱり怪しい」とクルミが言った。


「どーも気になっちゃうんだよなぁ。マキ先輩のことも。っていうか、気にし出すと誰もが〈ファントム〉に見えてきちゃう」

「そこらへんにしておいたら? 本当にキリがないよ」

「ま、そーだよね……ごめんね、変なこと言っちゃって」

「大丈夫、気にしてないから」


 二人並んで多目的施設に入ろうとした瞬間――どしん、と足元が揺れた。


 地震? そう思うよりも早く、続けざまに大きな音がした。まるで巨大な何かが地面を叩きつけているような音。合唱コンクールで聞くような和太鼓の音とか比べ物にならない重低音。工事現場の作業音に近いが、ここでそういったことが行われているという話は聞いたことがない。


「な、なに!?」


 クルミが教科書を抱え、首を左右に動かす。


 ミドリはフェンスに駆け寄った。眼下の裏庭では三人の男子生徒と――何者かがいる。背中から巨大な腕を生やした、何者かが。

 その何者かは仮面をつけていた。


〈マスカー〉だ。


 男子生徒三人は倒れており、ぴくりとも動かない。赤い染みもある。一人は足がおかしな方向にねじれ、ミドリはひっと息を詰めた。


 どうしてこんなところに〈マスカー〉が?

 

 どうしたらいい? こんな時は――


「み、ミドリぃ……!」

 

 同じものを見たクルミはへたり込み、小刻みに震えていた。


「あ、あれ……〈マスカー〉だよね? なんで……」

「クルミちゃん! 立てる!?」


 クルミの腕を自分の肩に回し、すぐさま多目的施設に入る。その間にも〈マスカー〉による破壊行為は続き、どしん、どしん、と建物が揺れた。


 ここにも被害が及ぶ――


 そう察したミドリはクルミの手を引っ張った。

「クルミちゃん、スマホは!?」

「あ、持ってる……」


 基本的にスマホは持ち歩き厳禁ではあるが、この際は問題ではない。「貸して!」とほとんど奪うようにしてスマホを持ち、見慣れた番号を打ち込んでいく。


 果たして――相手はすぐに出た。

「あ、おじさん!?」

『おー、ミドリか。どうした。この時間なら授業中……』

「それどころじゃないの! 学校に〈マスカー〉が出たの!」

『な、なんだとぉ!?』


 あまりに大きな声だったので、ミドリはつい耳を押さえた。


『そいつはどういう奴だ!? いや、今から行く! とにかく〈マスカー〉に襲われないように逃げろ!』

「う、うん……!」


 電話口の先では、「車を用意しろ!」と叫ぶダンの声が聞こえる。


 ガラスの割れる音。そして悲鳴。


 振り返れば背中から腕を生やした〈マスカー〉が多目的施設に入ったところだった。

「制服……?」

「え?」

「あの〈マスカー〉、制服を着てる……」

 

 クルミの言う通りだった。


 確かにあの〈マスカー〉は学生服を着ていた。細いが、体格としては男子だ。背中から巨大な腕を生やし、まるで野球のグローブをそのまま張りつけたような意匠の仮面をつけている。


「あ、ああ……」


 クルミの体から力が抜け、膝から崩れる。


 今、〈マスカー〉は多目的施設の入口から反対側――クリア板で仕切られた教室に足を踏み入れているところだった。背中の腕のひと振りで机も椅子もまとめて吹き飛ばされてしまう。


〈マスカー〉はこちらを向いていた。


 騒ぎに気づいた他の生徒たちが我先にと入口から逃げ出す。


「クルミちゃん! 私たちも!」

「ミドリ……ごめん、立てない……」

「大丈夫だから!」


 クルミの腕を取り、なんとか立ち上がる。


 しかし――その間にも〈マスカー〉は迫ってくる。

長い腕を伸ばしてガラス板を突き破り、さらにはその腕で電光掲示板や壁、天井など――あらゆる箇所に食い込ませ、猿のように跳ね回る。


 ミドリとクルミとの距離はほんの数秒で詰められた。


〈マスカー〉は天井に食い込ませた腕で振り子運動のように自らの体を上空に躍らせた。そしてためらいなく、二人に向けて拳を振り下ろした。


「——ッ!」


 ぎゅっと目をつぶる。


 一秒経ち、数秒経ち、恐る恐るミドリは目を開けた。


 眼前に誰かが立っている。

 

 白い衣装、白い靴。肩越しに振り返った顔には――目も鼻も口も、すべてを覆う白い仮面。

 

 紛れもなくあの夜に出会った道化だった。


「やぁ、また会ったね」

「道化、さん……」


 道化は肩をすくめ、「ここは僕に任せてくれたまえ」


「で、でも、あの〈マスカー〉は……」

「わかっている。君の学校の生徒だろう?」


 なぁに、と道化は人差し指を立てた。


「僕の仮面は人を傷つけやしない。ちょっとおとなしくしてもらうだけさ」


 そう言って道化は軽く手を振る。


「…………」


 背中から腕を生やした〈マスカー〉は、獣のように四つ這いになっている。なぜか腕の一部が消失しており、警戒心をあらわに道化に狙いを定めていた。


「さて」と道化はつぶやく。


「君はまだ舞台に上がるには力不足だ。……退場願おうか」

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