第一章-1「仮面と道化と問題刑事」

 引島家で一番の早起きはミドリだ。


 長い黒髪を三つ編みにして、それから朝食とお弁当の準備に取りかかる。四人分なので量もけっこうなものになるが、慣れているので苦とも思わない。ただ、叔父がズボラであるためその後片づけには閉口させられる。


「まったくもう、おじさんたら。粉を入れっぱなしじゃない」


 朝食を作りつつ、コーヒーメーカーの洗浄をする。夜に飲んだのだろうが、カフェインを摂取して眠れるというのはなかなかの頑強さだ。呆れつつもミドリは、昨日も遅かったんだろうなとぼんやり考える。


 朝食とお弁当を用意し終えると、目覚ましのアラームが鳴った。


 それから一分ほど。三女のアオイが寝ぼけ眼でリビングに顔を出した。

「おはよ、ミドリお姉」

「おはよう、アオイちゃん」

 

 二番目に起きるのは決まってアオイだ。彼女もけっこう早起きが得意で、小学校が始まる時間も早いので、自分で起きられるように目覚ましをセットしている。しっかりしている子なので、ミドリとしても手がかからないのがありがたい。

「アカネちゃんはまだ寝てる?」

「うん、かもしれない」

 

 ふぁあ、とあくびする。

 

 ミドリは軽くため息をつき、「アカネちゃんを起こしてくれる?」

「おじさんはー?」

「いい、大丈夫。昨日も遅かったと思うから」

「はーい……」

 

 アオイが部屋に入っていくのを横目に見ながら、ミドリは冷蔵庫から野菜ジュースを取り出し、一杯飲んだ。まだ暑さの残っている時期だから、冷えたものを体内に入れると気持ちいい。

「アカネお姉、起きたよ~」

 

 アオイがもう一人の姉を手で引いて連れてくる。赤いフレームの眼鏡越しに、アオイ以上にとろんとした両目が覗いている。

「おはよ、アカネちゃん」

「あー、おはよ……」

 

 ぐるぐると腕を回しながらあくびをする。

「くはー、三日連チャンさすがにきついわー」

「昨日も遅かったよね。バイト、あんまりやりすぎないでね」

「わかってるって」

 

 ひらひらと手を振るが、絶対わかっていないだろう。


「おっさんは?」

「まだ寝てる」

「けっ、いいご身分だこと」

 

 アカネが毒づくが、ミドリは「ダメだよ」とたしなめた。


「おじさんが働いてくれているおかげで、私たちは生活できてるんでしょ」

「あーはいはい、ミドリはお真面目さんだこと」

「アカネお姉、そんな言い方ダメだよ~。それにおっさんじゃなくて、おじさんって呼ばないとかわいそうだよ」


 するとアカネは容赦なく、アオイの頬を引っ張った。

「あんたも小学校に上がってから生意気なこと言うようになっちゃって。この間までおっさんのこと、呼び捨てにしていたくせに」

「ひゃって、おひさんは、おひさんだも……ふぃ」

「こら、アカネちゃん。あんまりいじめないの」

 

 そうこうしている内に、リビングにのそっと熊のような男が出てきた。はっきりとわかるほど目が充血しており、生気にも欠けている。体格の大きさも相まって、異様な迫力をかもし出していた。

 

 ミドリのみならずアカネもアオイも、目を丸くしていた。この叔父が朝に目を覚ますことなどほとんどないからだ。

「おはよう、おじさん」

「おお……」

 

 引島ダンは生返事をしつつ、食器棚からコップを取り出して水を入れる。ぐびぐびと飲んだ後に、ぷはぁと生臭い息を吐いた。

「ああー、クソ眠ぃ……」

「おじさん、言葉遣いには気をつけて。アオイちゃんが真似をするでしょ」

「しないよー」

「へいへい、わかったよ」

 

 ダンは不満げな三女の頭を撫でてやり、それからリビングの椅子に腰をつけた。テーブルの上に弁当箱が三つ並んでいるのを見て、「んん?」と首を傾げる。

「おーい、ミドリ。弁当箱、三つしかないぞ」

「おじさんたら。アオイちゃんは学食だよ」

「ああ、そうか……」

「おっさん、ボケたんじゃないの?」

 

 にやりと口の端をつり上げたアカネに、「うるせぇ」と応える。

 

 それからダンはテレビをつけた。


 ミドリ、アカネ、アオイもそれぞれ席につき、「いただきます」と言ってから食事に手をつける。


 無言でみそ汁の椀を持ったダンに、ミドリはじろっと睨んだ。

「おじさん、いただきますは?」

「……いただきます」

 

 ダンは不承不承といった具合につぶやいた。

 

 テレビではニュースが流れている。芸能人のゴシップだとか、天気予報とか、そういった類いのものだ。四人ともたまにテレビの方を見るぐらいで、意識は朝食の方に向けられていた。

「ミドリ、あんたまた料理の腕を上げたわね」

「わかる?」

「うんうん、ミドリお姉の料理は天下一品~」

「ありがとう、アオイちゃん。大好き~」

 

 隣に座る三女の頭を抱きしめる。

 

 空気が変わったのは、ニュースの速報が入った時だった。

 

 アナウンサーが手元の原稿に目を落としながら、顔をこわばらせている。

『速報です。またも〈マスカー〉による事件が起こりました。九月二十日、台舞銀行三浦支店にて強盗事件が起こったとのことです。犯人は二人組で、その内の一人が仮面をつけていたそうです。現場では火事が起こっており、また焦げついたようなタイヤの跡が残されていたとのことです……』


 どん、と揺れた。


 見ればダンが拳をテーブルに打ちつけているところだった。彼の眼はテレビに向けられている。


『〈マスカー〉による犯罪は今月に入って三件目になります。特異な能力を持つ彼らに対し、警察はなんら有力な手を打てていないというのが実情になります。市民からの不安の声も日々高まっており、中には警察の不手際を指摘する声もあります……』


 ミドリもアカネもアオイも、何も言わなかった。無言で朝食に手をつけるのみで、ダンのことを見ようともしていない。


 ニュースでは、市井の人々がインタビューを受けているところだった。


『やっぱりねぇ、〈マスカー〉は怖いわよ。普通じゃないわよ。仮面をかぶって犯罪を犯してるんでしょ? そういうのって卑怯じゃない』

『法律で規制も必要なんじゃないですかね? いっそのこと、被り物は全部禁止にするとか。お祭りで子供にお面を買ってあげたんですけど、他の人からの視線が気になっちゃいましたよ。あれじゃあ、お面屋さんもかわいそうですよね』

『とにもかくにも警察が頑張らないとさぁ。だらしないよ。〈マスカー〉が世に出るようになってから十年ぐらいだっけ? それなのに一向に状況は変わってないじゃん。〈マスカー〉による犯罪が増えるのもしょうがないって思うよ』


 ダンはリモコンでテレビを切り、みそ汁をぐいっと飲み干した。


「なんも知らねぇくせに、勝手なことをほざきやがって」


 怒りをあらわにつぶやく。


 不穏な空気の中、掛け時計の針がかち、かちと音を立てる。それを見たアオイが、「あっ」と声を出したことでその空気は破られた。

「そろそろ学校に行かないと~」


 いつもより弾んだ声。


 アオイはいそいそと皿を片づけ、洗面所に向かう。


 次に立ち上がったのはアカネだった。彼女も自分の皿をキッチンに持っていき、それからテーブルの弁当箱を手に取る。

「ミドリ、いつもあんがと」

「ううん、気にしないで」


 最後にミドリは立ち上がった。キッチンで皿を洗っている時に、「おい」と声を投げかけられる。

「今度の劇、いつだっけか?」

「え? 一か月後だけど……」

「仮面をかぶる奴を題材にしてんだろ?」


 ミドリは言葉を呑んだ。


 この叔父が仮面を、そして〈マスカー〉を毛嫌い……いや、憎んでいることは誰もが知っていることだ。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いというのか、仮面を扱った作品に対しても嫌悪感を示している。


「嫌だなぁ」とミドリは努めて声を明るくした。


「傷のついた顔を仮面で隠しているだけだよ。〈マスカー〉みたいにおかしな力を持っているでもないし、おじさんが思うようなものじゃないって」

「……それならいいんだけどな」


 ダンはそれ以上、何も言わなかった。


 ミドリは目の前の皿を洗うことに専念した。

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