プロローグー2

「……?」

 ミドリは不意に、教室の窓から外を見ていた。月明かりが出ているだけで特に普段とそう変わらない風景。何に違和感を持ったのか、自分でもよくわからなかった。

「気のせいかな」

 

 とんとん、と机の上で紙の束をまとめる。今度の劇で用いる脚本の手直しをしていたら、こんな時間になってしまった。


 バインダーに綴じ、鞄に入れる。

 

 鞄を持ち、教室から出ようとすると――ちかっと視界の端で何かが光った。振り返ると体育館の方角だった。窓に近づいて体育館を見下ろしてみると、どこにも明かりはついていない。この角度からでは非常灯は見えないし、見えたとしても気を引くほどの光量ではないはずだ。

「うーん?」

 

 ミドリはしばらく迷い――とりあえず体育館に行ってみることにした。

 

 階段を下り、渡り廊下を歩き、体育館の入り口へ。

広々とした空間には非常灯のみが灯っているだけで、バスケットボールのリングなどはぼんやりとしか見えない。

 

 明かりを点けようかと思ったが、警備員に見つかってあれこれ質問されるのはあまり気が進まない。暗闇に目が慣れてくるのを待ってから、ミドリは体育館に足を踏み入れた。

 

 しんと静まり返っている。


 人の気配はない。


 物音ひとつも聞こえない。


 やはり気のせいだったろうか――ミドリが踵を返そうとした矢先、講壇で照明が灯った。驚いて振り返ると、照明の下に何者かが立っている。

 

 白い道化――

 

 印象として、真っ先にそれが浮かんだ。ひし形の白と黒が交互に配置された衣装、先の尖った靴に帽子。顔の両側には黒い髪が垂れ下がっている。

 

 そして何より目を引くのは、顔全体を覆う白い仮面。

 

 シンプルな仮面だった。アーモンド形にくり抜かれた両目以外に、これといった意匠がない。あまりにも無個性かつ無機質で、だからこそなのか、ミドリの目にはその仮面が強烈に焼きついた。

 

 ミドリは恐る恐る、その道化に向かって歩を進める。細身ではあるが、体格的に男性であると察した。彼は講壇の上で何をするでもなく、ただ立っている。

立っているだけだが――その佇まいは自然だった。まるで舞台に立つことに慣れているというように。


 仮面……いや、アーモンド形の両目はミドリに向けられている。

 

 その白い道化との距離が縮まったところで、ミドリは尋ねた。

「あなた……誰?」

「誰でもないさ」

 

 答えが返ってくるとは思わず、鞄を落としそうになった。

 

 道化は構わず続ける。

「僕に名前はないからね」

「名前がない? じゃあ、あなたのことはなんて呼べばいいの?」

 

 道化は口の辺りに手をつけ、笑ったように肩を揺らした。わざとらしいというのか、仰々しい仕草だった。


 何がおかしかったのか、ミドリにはわからなかった。

「いや、失敬」と道化は言った。

「僕のように怪しい人間を相手にして、そんなことが言えるのが驚きでね」

「自分で怪しいって言っちゃうんだ……」

「だってそうじゃないか。……今のこの日本ではね」

 

 ミドリは息を呑んだ。確かに、この道化が公共の場に出ればすぐさま逮捕されることは明らかだったからだ。

 

 仮面はタブー。〈マスカー〉は犯罪者。

 

 それが常識になったのはいつ頃だっただろうか。

「なんと呼べばいいか、と言ったね」

 

 道化はすっと腹部に手を添え、うやうやしくお辞儀した。

「僕は道化。名もなき道化。幕引き役を担う者さ」

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