マスカ・レイド「白い道化とオペラ座の怪人」

寿 丸

プロローグー1

 闇の中から手が迫る。


 半分だけの、白い仮面――


 少女は荒く息を吐きながら、ただ逃げる。両手に持った鞄が重く、そのせいで足がもつれそうになった。


 こんなはずじゃなかった。


 夜まで残らなければよかった。


 お母さんの言う通り、早く帰ればよかった。


 後悔と恐怖が胸中を覆い尽くしていく。今、頭にあるのはただ逃げることだけだ。後ろから迫りくる、謎の怪人――〈ファントム〉から。


〈ファントム〉なんて学園七不思議のひとつみたいなものだと思っていた。今どきそんなもの流行らないって、内心では馬鹿にしていた。


 女子生徒だけを狙う謎の怪人だなんて――


 でも、実際は違った。


〈ファントム〉はいる。


 今、すぐ後ろに。

 

 この噂話が好きな女子生徒はなんと言っていただろうか。〈ファントム〉に襲われたらどうなるのか。

 

 思い出せない。こんな肝心な時に――

 

 やはり、殺されてしまうのだろうか。

「ああッ!」

 

 足がつんのめり、顔から地面に滑り込む。運よく鞄がクッションになって、その時ようやく鞄の中に防犯用ベルを入れていたことを思い出した。

 

 少女は鞄に手を突っ込み、必死にまさぐった。外灯が遠いせいで中身がよく見えない。参考書なんて机の中にでも置いとけばよかった。

 

 ざ、ざ、と土を踏みしめる足音がする。

 

 近づいてくる。

 

 それでも懸命に手を動かし続け――ようやく、触った覚えのあるものを掴んだ。


 今までに一回も使ったことがないが、考えている猶予はなかった。


 吸血鬼に十字架を向けるように、防犯ベルを〈ファントム〉に突きつけた。

 

 しかし、その姿はどこにもない。

「え……?」

 先ほどまでの足音も今では聞こえない。木の葉がざわついているだけだ。

 

 念のため周囲を見回したが、やはり見当たらない。先ほどまで追いかけられていたのが嘘のように静まり返っている。

「逃げられ、た……?」

 少女はつぶやき、ひとまず鞄を持って立ち上がった。暗いところは不安なのでベルを持ったまま、慎重に歩く。

 

 ともかく明かりのある場所に行きたかった。警察にも行って、先ほどまでの出来事を話す必要もあるかもしれない。

 

 しばらく歩いてようやく、校門の入り口が見えた。やたらと広い学校だからたどり着くのにもひと苦労だった。

 

 けれど、これで無事に帰れる。もう、あんな怖い思いは……。

「逃げられるとでも思っていたのかね?」

 後ろからベルを叩き落され、口をふさがれる。

「今どきの子にしては用心深い。何よりだ。だが、残念……私はそれに輪をかけて用心深いのだよ」

 

 悲鳴を上げたくても、声にならなかった。

 

 無理やり手足を動かそうとしても、〈ファントム〉の手に抑え込まれてしまう。

「んん、ん、ん――ッ!」

 ぽろりと涙がこぼれた。

 

 今朝、母とちょっとしたケンカをしてしまったことを思い出す。そんな時でも「行ってらっしゃい」「早く帰ってくるのよ」と言ってくれた母のことを。

 

 何も言わず出かけたことを、激しく後悔した。

 

 今日は母の誕生日だったのに。

 

 帰ったら、ちゃんと謝るつもりだったのに。

「た……す……だ、れか……」

 少女のか弱い声は、そこで途切れた。

 

 校門へと続く道には鞄だけが残されていたが――それも闇に溶け込むようにして、消えてなくなった。

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