風すら届かなかったが、この想いは届く


 換気扇がごうんごうんと動く低い音があたりに響く。

 自分の身長より少し高いところにある窓から、橙色の光が真っ直ぐ入ってきて、行方無くゆらゆらと宙を舞う小さな埃を照らしている。

 薄暗くてじめじめしていて、辺りには鼻をつんざく不快な匂いが漂っている。

 ここは特別棟3階の奥にあるトイレで、ここは普段、生徒があまり来ないトイレとして有名(?)で、知る人ぞ知るトイレとして知られている。


 そして今、僕はそこにいる。


 目の前には、二人の同級生がニヤニヤして立っている。

 心臓がキュッとなって痛むのを感じるけど、今は見なかったふりをする。

 だって僕は強くならなくちゃだから、強くなって早くあの人に認めてもらうって、そう決めたから……。

「おいお前、ここらへんに人がいないかちゃんと見たか?」

「あぁ、ちゃんと見たぜ」

 そう言うと、そいつは僕の顔を見た。

 その目はまるで、今から獲物食べる獣のような愉悦で溢れていて、夏終わりでまだまだ暖かいはずなのに、鳥肌が立って手が震え始める。

 昔から背が低いのと中性的な顔立ちのせいで、よくいじめられることがあった。

 先生に助けを求めたこともあったが、その時はクラスの前で「この子はいじめられてます」と言うだけ言って後はほとんど不干渉。

 当然、その分だけ注目を浴びたので話しかけてくれる人もいたが、それは自分がだからであって、僕に話しかけてる感覚は全くないも同然だった。


 おかげで偽善者と傍観者は増えた、では救世主は?


 ……でも、親に言うのは嫌だった。親に迷惑はかけたくない。

 それはただのわがままなのかもしれない。

 でもこれは自分が悪い子だから。

 だから、その尻拭いなら自分でつけるのがけじめだろうって、そう思って前を向こうとするけど、いざそれを目の前にすると何もできなくなってしまう。

「……なあ、おい、聞いてんのか?」


 我慢すれば誰にも迷惑かからないということを知っているから。


 話しかけてきた男が、僕の髪の毛を掴んでくる。

「女みたいに伸ばして気持ちわりぃ」

 我慢すればいいんだ。

「おい、下ばっか見てないでこっち見ろよ」

 顎をガッっと掴まれて顔をあげさせられる。

「……つまんな、もっといい反応しろよ」

 早く終わってくれ。

 心を空っぽにして早く時間が過ぎるのを待っていると、僕の右ポケットから着信音が鳴る。

「ん、なんだ?」

 あれ、朝ちゃんとマナモードにしたはずだけど……。

 男は僕のポケットに手を突っ込んでスマホを取り出す。

「どれどれ、誰からかなー?」

 僕に連絡をしてくる人なんて母以外にほぼいない。多分、母だろうそう思っていた。

「……生徒会長? お前、生徒会なんて入ってたんだな」

 全く予想していなかった名前が男の口から出てきて、僕の頭は真っ白になった。

「……へぇー、なに? お前、その顔もしかして」

 そいつは、口角を吊り上げて卑しい笑みを浮かべた。


「こいつのこと好きだろ」


 僕が今どんな顔をしているかが、自分で分からない。

 でもその男が言うには

「ふっ、その顔を見るに図星か。」

 どうやら、嬉しそうな顔をしてしまっていたらしい。

 男は僕のスマホをマナモードにすると、その手をパッと離して地面に落とした。

 僕のスマホはバキバキと音を立てながら、跳ねて転がり僕の近くに裏返って止まった。表を見ずとも分かる。多分、画面は割れている。

 男はそれに飽き足らず、顎に手を当てて僕の全身をまじまじ見始めた。

 そして、顔を急に近づけてきたかと思ったら、耳元でこう囁いた。


「お前、よく見たらかわいい顔してんじゃん」


 その言葉の意味を理解するのに時間はいらなかった。

 男は僕の制服のボタンに手をかけてきたので、思わず身をよじって離れた。

「安心しろよ、ちゃんと動画撮って、その生徒会長とやらに送ってやるからよ」

 落ちている僕のスマホの画面が明るくなるのが見える。

 殴る、蹴るなら我慢すればいい、ただ体が痛いだけだから。

 でも、さすがにそういうことをするのは無理だ、精神的にキツイ。

 しかも、それ以上に生徒会長を巻き込むことが、なによりもっと嫌だった。

 咄嗟に「逃げないと」と思って駆けだすが、出口を塞いでいるもう一人の男に捕まってしまう。

「なに逃げてんだよ!」

「ぐふっ! ふー……ふー」

 腹部に強い衝撃を感じて思わずうずくまった。

 その間に制服を脱がされ、シャツをズボンを脱がされそして、パンツだけの姿になった。

「男だと思ってたけど、お前、女みたいに肌綺麗だな。毛も全然生えてないし肌が白い、腕も細い。いけるわ」

 全身が震えて、男が何を言っているのかもよく聞こえない。

 頭が、心が、恐怖に染まっていく。

 それでも、視界の端ではスマホの画面が明るくなっている。

 もう、こうなったら誰でもいい! 誰か僕を助けてくれ! そう思って、あらん限りの声を張り上げた。

「誰かぁ……た、助けてくださぃ……!」

 その声は自分が思っているよりも遥かに小さかった。普段、思いっ切り大きな声を出すことにをしていないため、馴れていないこの喉は、全く使い物にならなかった。

「そうそう、それだよ! その声が聴きたかったんだ!」

 男は恍惚の顔を浮かべると、僕が身に着けているあと一枚の布に手を伸ばす。

 視界が涙でぼやけていく。

 あぁ、僕の人生はここで終わるんだ……。

 そう思ったのと同時に、視界の端から光が消えた。これで完全に希望が失われた。

 そう思ったその時、入り口付近から聞き馴染みのある声が聞こえてくる。


「一年! そんな声出せたんだなー。見直したわ」


 僕は知っている。その声は完全に生徒会長そのものだった。

「はあ? お前誰だよ」

「誰とは心外だな……生徒の代表なのに忘れちゃったの? ……あぁ! 今はマスクしてるから分からないか」

「お前……もしかして、生徒会長か?」

「うーんと、それはご想像にお任せするわ」

 心臓の音がうるさくて周りの音が聞きづらい。

 だけど不思議と生徒会長の声だけはスッと耳に入ってきて、僕の心を落ち着かせる。

「あーそうだ、一年?」

 涙でよく前が見えないけど、何でもいいから声がする方を向いた。

「目、閉じててくれない?」

 その言葉の意味が分からなかったけど、とにかくその指示に従って必死に目をつむる。

「よーし、おーけー? 行くよ」


 その間、何があったのか分からなかった。

 ただ、耳に残るのは一つの怒号と一つの怯えた声、何かが弾けて壁にぶつかって、そして、走り去っていく二つの足音だけだった。

「一年、 もう目開けていいぞ」

 目を開けると、生徒会長が手の甲をもう一方の手でスリスリ撫でている姿だった。

 その姿を見て僕は思わず抱き着いてしまった。

「生徒会長ー! うぅう……あああぁぁあ」

 そして、生徒会長の胸の中で思いっ切り泣きじゃくってしまった。

「だから俺、生徒会長じゃないんだけどなー……」

 それでもいい。少なくとも僕にとって、この人は間違いなく「生徒会長」なのだ。

「いやー、勝手に名前借りたには申し訳ないな」



 この事件があって、後から見たスマホの画面には、端から端まで着信通知で埋まっていた。

 それを見た僕は、再び涙が出そうになったが、今度はちゃんとこらえることができたのだった。

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