【一】旅立ち2
「今日からここがあんさんの家や」
蒼矢は初めての時空旅行に、今だくらくらする頭を上げる。すると自分が住んでいた屋敷とは比べ物にならないほど小さな家がそこにあった。大広間にすっぽりと収まりそうな粗末な家だ。蒼矢は、その粗末な家が自分の住居となることに不満はなかったが、新しい生活に対する不安から、穏やかとは言い難い表情で遥華の顔を見上げる。
遥華はにっこりと笑ってみせると、その不安などお構い無しに戸口を叩いた。
きっちり三度乾いた木の音を響かせると、中からそっと戸が開かれる。中から姿を現したのは、二十代半ばほどの女性だった。粗末な家に似つかわしくないほど優雅な仕草をする女性だ。
「いらっしゃい、遥華さん、お久しぶりですね」
その女性が軽く頭を下げると、結い上げた髪に挿していた簪がシャランッと音をたてた。漆塗りで細やかな細工のなされたその簪。それは町人がする物にしては凝りすぎている代物だったが、その女性の纏う雰囲気がそうさせるのか不思議と浮いてはいない。
「久しぶりやな、
蒼矢が女の雰囲気に圧倒されていると、隣で遥華が口を開いた。
「ええ、大分。それで、可愛いお連れが一緒だけれど、この子が例の子かしら?」
奈都と呼ばれた女性は、にっこりと蒼矢に笑い掛ける。その笑顔が在りし日の母の顔に重なって、蒼矢はなんとも言えない気持ちになった。その気持ちが顔に出ていたのだろうか。奈都は「ごめんなさい」と呟いてすぐにその笑顔収める。それが申し訳なく思われて、蒼矢は無理やりにでも気持ちを浮上させようと努力した。
「初めまして。お世話になります、蒼矢と申します」
「こちらこそ、初めまして。私は、あなたと一緒に暮らすことになるみつよ。」
彼女も応えるように自己紹介を返してくれたが、それは蒼矢に新たな事実を突き付けた。
「え、でも、遥華は奈都って……」
「奈都が私の本名で、みつはこの時代での名なのよ。時の旅人は、時代に合わせて名を使い分けるものなの」
「じゃあ、僕も新しい名を持つべきなのかな……」
蒼矢は、母が名付けてくれたこの名が好きだった。その名まで奪われなくてはならないのか。困惑と疑念が入り混じった目で、確認するように遥華を見る。
「せやな、新たな時代に馴染むためにはそれが一番ええかもしれへんな」
「でも、僕は今のままがいい」
「そうは言ってもなぁ。蒼矢なんて名いつまでも、使つこうとったら、あんさんはいつまでも、過去を引き摺ることになるんやで」
それでも蒼矢は、遥華の言葉に首を縦には振らなかった。それを見兼ねた奈都が膝を折り、蒼矢と向かい合う。だが、蒼矢はふいっとそっぽを向いた。だが、
「あなたがその名を大切にする理由はわかるわ」
と語り掛けた奈都の言葉に、その顔を再び奈都に向ける。
「本当に?」
「ええ、それは大切な思い出なんだもの。だけどね、それは、大切にしまっておきましょう」
「どうして?」
「時の中で本当の自分を見失ってしまわないようにするためよ。いいわね?」
優しく語りかける奈都の言葉から、自分からこの名を奪うわけではないと察して、蒼矢はこくりと頷いた。
「さて、それじゃあ、どんな名前がいいかしら?」
「せやなぁ、総てを司る者と書いて総司はどうや」
「総司?」
「まあ、素敵な名前ね」
奈都の一声に、蒼矢はその名前が気に入った。
「総司。総司か……、うん、それにする」
そうして、少し変わった自己紹介を終えて、蒼矢は奈都に促されるまま家に上がった。そして聞かされたのは色々な話であった。
その主たるはこの時代のこと。
ここは蒼矢が暮らしていた時代からそう遠くない未来、江戸時代と呼ばれる場所らしい。目立った戦もなく、徳川という将軍が頂点に立ち武士たちをまとめているのだと聞いて、蒼矢は大層驚いた。それだけ多くの武士達をまとめ上げることは、蒼矢の時代では考えられないことだったからだ。
そうして奈都は、蒼矢の質問に答え、何でも教えてくれた。そして、二人が気兼ねなく話ができるようになってきたのを見て取って、遥華が席を立つ。
「わいはそろそろお暇するは」
遥華が帰ってしまうことに心細さを感じた総司は、遥華の着物の裾を掴もうとした。だが、遥華はそれをすんなりとかわして総司を見詰める。
「元気でがんばりや、総司」
そうだ、その名を呼ばれた時から自分はこの時代の住民なのだと、蒼矢は姿勢を正す。
それを見て、遥華は安心したように微笑んだ。そして総司の気持ちが揺るがないうちにと、時の流れの中に姿を消した。後に残された総司は暫くの間、遥華が立っていた場所を見詰め立ち尽くしていたが、ぽんっと優しく肩に添えられたぬくもりに振り返ると、奈都がいる。
「今日はもう遅いし、夕食をとって休みなさい」
「でも、今日はいろいろあり過ぎて、眠れそうにありません」
「そう、では今日は一緒に寝ましょうね。でも、いつまでも過去のことばかりに囚われていては駄目よ」
「はい……」
「いい子ね。明日は江戸を案内するから、しっかり休むのよ」
そう言って、奈都は夕食の支度に立ち上がった。
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