【一】旅立ち3
その翌日。
総司は晴れ渡った空の下、昨夜の言葉通りに連れ出された多摩のあぜ道をゆっくりと歩いていた。昨日からのことが、まるで夢か幻であったかのように穏やかな時間が流れている。
「私がこの時代に来てから出会った人たちはいい人たちばかりだったから、総ちゃんもすぐにこの時代が好きになると思うわよ」
そう言って前を歩いていたみつが振り返る。初めのうちは、二人で手を繋ぎ並んで歩いていたが、総司が恥ずかしさから俯き加減になるのを見て、みつがこれでは案内をする意味がないと気を遣ったのだ。
空を飛ぶトンビの影を目で追っていた総司は、突然話を振られて驚いた。けれども、みつの気遣いがうれしくて、昨日は浮かべなかったような穏やかな表情を浮かべて、再びみつの隣に並ぶ。
「みつさんが言うならそうなんだろうね」
「総ちゃん、そんな他人行儀な物言いは止めて、みつ姉と呼んで頂戴」
「え、でも……」
「あら、この時代では私達は姉弟でしょ?」
「はい、では、姉上と呼ばせていただきます」
「よろしい」
満足気に笑うみつにつられ、総司の顔にも自然と笑顔が浮かぶ。それを見て、みつは、
「やっと笑ってくれたわね」
と更に笑みを深くした。総司に軽くなったみつの足取りに、それにあわせるように総司は少し歩調を速める。
と、その時――総司の耳に聞き覚えのある音が届いた。
それは、乾いた竹がぶつかるような、力強く、それでいてどこまでもしなやかな音だった。
(これは竹刀のぶつかる音だ)
音につられて総司は足を止めた。
「あら、どこかの道場の出稽古かしら」
みつも音に気付いて、呟きを漏らす。だが、その呟きを耳にするか、しないかのうちに、総司は音のする屋敷へと駆け出した。
領主を父に持つ総司は、幼い頃から武芸の稽古を付けられてきた。そんな総司にとって、剣は唯一父との繋がりを今も示してくれるものである。それは今もそれは変わらない。だから総司は耳に馴染む竹刀の音に居ても立ってもいられなかった。
音のした屋敷の庭先に許しもなく駆け込んだ総司が見たのは、竹刀を構えた男達の間を縫う様に回り、激を飛ばす男の背中だった。
「姿勢を正せ! 引け腰になるな!」
(父の背中に似ている)
その背中が目に入った瞬間浮かんだ感想がそれだった。大きな背中と逞しい腕。それは、父を連想させるには十分すぎるほどの要素を帯びている。
「総ちゃん!」
ただ立ち尽くすことしかできなかった総司の肩にぽんっと置かれた重み。同時に掛かった声に、総司はびくんっと身を震わせる。
その声に指導していた男も二人の存在に気づいたようだった。指導の手を休め、二人に近付いてくる。男はみつに対して会釈をした後、屈んで総司の目線に合わせた。
「稽古の音を聞きつけてやって来たとはな。坊主、剣道に興味があるのか?」
総司は無言でこくりと頷く。
「そうか、そうか、そう言ってくれるとうれしい限りだ。好きなだけ見学していってくれ」
男は豪快に笑い、総司の頭をがしがしと撫でた。総司はしばらくされるがままになっていたが、ようやく自分の頭からその手が離れると、自分の手とその手を見比べた。
男の手はとても大きい。
(こんな小さな手じゃ何も守れない。あんな大きな手があれば、守りたいものを守り抜けるのかな……)
それから総司は一日中、その竹刀の音を聞いていたのだった。
丸一日を稽古の見学に充てた帰路のこと。蒼矢と奈都は、薄暗くなり始めた頃あぜ道を二人並んで歩んでいた。その道すがら落ち着く間もなく総司がその思いを口にする。
「僕、剣を習いたい」
隣を歩くみつが目を見開き、しかし聡い彼女は、総司の気持ちを正確に汲み取った。否とは言わず、ただその理由を問いたのだ。
「どうして剣を習いたいの?」
「僕は何かを守れる力が欲しいんだ」
「何かを守れる力?」
奈都自身失ったものは多く、そして失う度、自分に力があればと思うことは多い。幼い総司がそれを理解していることが、奈都にはなんだか悲しかった。しかし奈都にはそれを止める理由はない。
幼い総司が守るための力を得ることは、同時に自らの身を守る手段を得ることに繋がるからだ。
みつは迷うことなくそれを了承した。
そして再び二人が、試衛館と古ぼけた看板の掛かった道場の前に立ったのは、それから数日後のこと。
「行きましょうか、総ちゃん」
「うん」
ごくりと唾を飲み込んで、総司は道場の敷居に足を掛ける。
進むにつれて大きくなるのは竹刀の音だった。その音が近付くにつれ、総司の表情が強張っていく。けれど、その音と共に聞きなれた声が降ってきた瞬間、今までの表情が嘘のように総司の表情は和らいだ。
「あなた方が、新しい入門希望者だったとは」
後方からの声に振り返れば、先日の出稽古出会った青年の姿がある。驚きと喜びに総司はみつを見やった。みつは悪戯が成功したとばかりに苦笑を浮かべる。
「先日の家に伺って、どこの道場の方かお聞きしたのよ。ほら、総ちゃんご挨拶は?」
みつに促されるまま、総司は慌てて頭を下げた。
「今日から入門させていただきます、沖田総司です。よろしくお願いします!」
「俺は近藤勇。こんなボロ道場だけど、こちらこそよろしくな」
そう言って青年は、大きな手を差し出す。
手を重ねると、大きくて分厚い手はとても温かだった。そのぬくもりに総司は自然と笑顔となった。
だが、この時はまだ知りえなかったのだ。
この先に待ち受ける歴史を――。
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