第63話 早く治るといいわね

 こんな小さな段差で。2mmそこらの、段差とも言えないようなところで。

 ダイニングの一角にあるほんのわずかな木の板のヘリでバルバラはつまづいた。


 ダイニングに残っていた全員が駆け寄った。クライン卿は気の毒なくらい真っ青だったが、バルバラに意識があるのを確認して少し落ち着いた。


 アデルモがコリンナを見送ってから戻ってきた。ただならぬ雰囲気に気圧けおされた様子だ。

 それから、花とアデルモは起き上がれないバルバラのために担架たんかを作った。シラーの指示に従って布と長い棒を用意する。幸い、グリューネヴァルトの研究所には何に使うかわからない謎の部品のようなものが沢山残されていた。


 クライン卿はジョアンヌと一緒にシラーに言われるがままにバルバラの体調確認を行っていた。


「ペットとはわけが違うのよ」


 ジョアンヌが緊迫した声でクライン卿に言った。


「分かってるよ、ジョアンヌ。シラーは経験豊富みたいだから、安心して指示に従おう」

〈経験はありませんが、蓄積されたデータに基づき、可能な限り適切な助言を行います〉

「ああ、まったく、援護をどうも。……ジョアンヌ、不安だと思うが手伝って欲しい。医者はヘルガが呼びに行ってくれている。医者が来るまでの間もできることをやりたいんだ」


 ジョアンヌは唇を噛んで、バルバラの身体に向き合った。シラーの丁寧な誘導に従い、瞳孔や認知機能の確認をする。

 バルバラはしばらくぼーっとした状態だったが、徐々に受け答えができるようになっていった。


 意識がはっきりしてくるにつれて、無理に起き上がろうとするようになる。それをなんとかクライン卿とジョアンヌが止めていた。


 宴会の後片付けは後回しだった。


 最終的にバルバラはおとなしく即席の担架に乗せられて自宅へ戻っていった。アデルモとクライン卿が夜道に気負つけて運んでやったのだ。


 その間、花はほとんど話さなかった。突然のことで動揺していたし、適切な反応も思い浮かばなかったからだ。

 ただ、シラーの言葉に従って、バルバラを助けられることを黙々とやった。


 バルバラが休めるまで、クライン卿とヘルガが付き添うことになった。遅い時間になったが、ジョアンヌは花が台所を片付けるのを手伝ってくれる。


「バルバラ、前より体調が悪そうだとは思っていたけど、今日は驚いたわ」

「うん」

「痛みがかなり長引いていたようだけど、大丈夫かしら」

「うん」

「早く治るといいわね」

「うん」

「……ハンナ? 大丈夫?」


 無心で手を動かしていた花は、はっとした。名前を呼ばれて急に現実に引き戻されたからだ。取り落としそうになったコップを慌てて持ち直して、表情を取り繕う。


「あ~、ごめん、いろいろ考えちゃって」

「そうよね、心配よね。バルバラはもうかなりお年だし」

「骨折だっけ」

「ええ、治るにはしばらくかかるでしょうね」

「そっか。……シラー、どうかな、バルバラの体調」


〈骨折である可能性は89%です。また、短期の脳震盪であった可能性は76%です。聴覚と記憶力の低下があります。複数の認知症初期症状が見られました。介護支援サービスウィザードを開きますか?〉


却下ディクライン


 花は横目でジョアンヌを盗み見た。素知らぬ顔をしている、あるいは、魔術師だから変なことを言ってると思ったのだろうか。

 聞かれてはいけないことを聞かれた気がして、花は少しどぎまぎした。


 洗い物は一通り終わった。バルバラを運ぶのを手伝っていたアデルモも戻ってきて、椅子も片付いた。ジョアンヌが帰宅するにはもう遅くなりすぎている。アデルモの提案で、ジョアンヌは研究所に一晩泊まることになった。


 バルバラが倒れてから、花の世界にはまるで現実味がなかった。なにより、花は”この世界への関わり方”について、初めて悩んでいた。

 つまり、この夢のような異世界を、どう受け止めるかということだ。


 今まではなんだって全部の調子が良かった。行く先々での出来事はうまくいっていたし、危険な目にあうこともなかった。苦労はしたが、経済的にも安定している。


 だからずっと、観光気分だったのだ。


 帰り方も、日本とのつながりもよくわからない。むしろ離れた世界だからいい。


 心配事なんてほとんどなかった。人におせっかいを焼くのも、軽い気持ちだった。何も考えなかったわけじゃない、ただ、きっと、日本でいつもどおり過ごしていたなら。


 あんな風にお節介焼きの一言は言わなかっただろう。アデルモにも、ローラントにも、カタリーナにも。

 送別会もこんなに大々的に企画したりしなかっただろう。


 花は昨日のカタリーナのことを思い出した。この研究所に来てから初めての経験ばかりだった。

 ただ、自分のそんな変化が、嫌いではなかった。


 この事故を、悲しんでもいいのだろうか。

 夢のような世界に浮かれていただけの自分も、彼女たちと一緒に。バルバラを愛する人々と一緒に、心配してもいいのだろうか。



 そういえば、バルバラには家族はいないのだろうか。



 明日は見舞いに行こう。そう考えながら、花は眠りについた。

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