第55話 道案内を開始します。
花はリードを付けたクネーと、雲間から差す朝日の下を歩き始めた。
何もかもが順調だ。まるでこの世界には障害など何もないと言わんばかりに。
おさんぽコースで花が最初に出会ったのはヘルガだった。
「ハンナ、その子、本当に大きくなったわね」
今から仕事に出かけるのだろう、巾着袋のような形のトートバッグを肩に引っ掛けなおしながらそう言った。
「そう~、でもここまでになってからはサイズは変わらなくなったんだよね。あんまり大きいと家に入れれなくなるところだからよかった」
「足を拭いたりするのも大変でしょうね」
「本当にね、今日は帰ったら体を洗ってあげるつもりなんだけど、前庭くらいしか場所がないから外に水が飛び散らないように気をつけなきゃ」
「ちょっとくらい大丈夫だわよ、この辺りは郊外だけど、首都の恩恵に預かって町中に排水溝があるんだから」
ヘルガはクネーのたれ耳をかき分けるように犬の頬を撫でさすった。
クネーはおとなしく撫でられながらふす、と変な音の鼻息を鳴らしている。
「ハンナ、そういえばクライン卿には会った? きっとクネーをみたら腰を抜かすわね」
ヘルガは今度はクネーの顎のしたをくしくしとひっかいてやった。クネーは道端に座り込んですっかりご満悦である。
「クライン卿? 騎士とかですか」
卿、といえば最初に思い浮かぶのはそれだった。
〈ナイト爵のことでしょうか。キリスト教国家において授与される世襲できない栄誉爵位の騎士階級の爵位ですね。しかし、日本語で「卿」というと侯爵以下男爵以上の爵位保持者を表す「Load」の和訳として広く使われます。
もっとも日本や中国でも――〉
「そうよ、身分を明かしてくださらないから正確にわからないのだけど、ときどきこの辺りにきてるの。バルバラの昔からの知り合いみたいだわ。あの人の顔の広さはさすがね」
シラーはヘルガが話し始めるとすぐさま黙りこくった。
「ずいぶん気さくな方みたいね」
「そうなの。このあたりは郊外でもまだ中央に近いほうだし、貴族を見かけないわけではないけど、クライン卿は別格よ。ちかごろ本当にしょっちゅう見かけてて」
ヘルガは秘密を共有した少女のように笑った。
そこへ、向かいのこのあたりにしては大きな家の玄関から、杖をつきながらおせっかいな老婆が現れる。
「ヘルガ!」
耳が遠いのか、彼女は十分すぎるほど大きな声を上げた。
隣に座っているクネーがびくりと体を震わせて反応する。
「はあい、バルバラ、今行きますよ」
ヘルガはバルバラに負けないくらい大きな声を出すと、花に向き直って少し残念そうにこう言った。
「また話しましょう。最近は仕事に行くついでにバルバラのエスコートをしてるから、もう行かなくちゃ。あの人は足が悪いし、最近目もかすんでるから私がいないと市場まで行けないの」
「オッケー、またね。カーヤによろしく」
「もちろんよ! きっと大きくなったクネーを見たら喜ぶわ。喜びすぎて腰を抜かすかも」
明るく笑うヘルガをまた、バルバラの大きな声が遮った。
「ヘルガ!」
「はあい、バルバラ! 待ってください、一人で歩いちゃだめっ、危ないですよ」
花はまるで親子のようなやりとりにあったい気持ちになって、去り際にあいさつをした。もちろん、大声で。
「バルバラ、おはよう! 気を付けていってきてね」
「ハンナ、おはよう。アデルモによろしく言っておいて! クッキーがあるからまた取りにおいでってね!」
「はーい!」
バルバラのもとへたどり着いたヘルガは、彼女が杖を突いていない方の腕を抱えて小さな歩幅でともに歩き始めた。
「バルバラ、行きますよ。ハンナ、ありがとう! いってきます」
***
〈マスター、迷子ですか?〉
ハンナが見覚えのない通りで一度端によって立ち止まったとき、気を遣ったのかシラーが話しかけてきた。
「ま、まさかまさか、そういうわけじゃなくてちょっと自分が今いる場所が分からなくなっただけ」
〈迷子ですね〉
「でもそんなに遠くには行ってないでしょ?」
〈はい、自宅周辺のマッピングは不完全ではありますが、おおむね位置を推測することは十分可能です。
魔術波通信を受信できるディスプレイがあればもっとわかりやすくできたのですが〉
「なにそれスマホみたいな感じ? 便利そうだけどないのかしら」
〈魔術波は本来非常に微弱なもので、魔法陣で強化してようやく優秀な認定魔術師同士がちょっとした無線くらいの通信を確保できる程度です。手間のわりに制限が多いのでほとんど実用化されていないといっていいでしょう。
自宅からこの広範囲にわたって通信を確保できるマスターの方が珍しいと言えます〉
「へえ……」
目の前の見知らぬ道の様子を見るのに必死で、花はシラーの説明を半分も聞いていなかった。ただ、魔術波を使うのは難しくて思ったようにあれこれできるわけではないということだけ分かった。
「マッピングも完璧にしたいところだけど、とりあえず分かる道まで戻りたいからナビしてもらえるかな」
〈もちろんです。道案内を開始します。まず、西に20メートル行った先、右方向です――〉
スマホに表示されたマップなしで道案内通りにあるくのはなかなか集中力を要した。人通りが多ければもっと大変だっただろう。
昼間だが少し奥まった住宅の裏をあるいているからか、花の前を遮るものは何もなかった。なので、つい油断して、あまり確認せずに曲がり角を曲がった、から。
初対面の相手と漫画みたいな、変な出会い方をしてしまったのだ。
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