第52話 でかっ……


「わあっ!」


扉を開けた花の目の前に広がったのは真っ白でもけもけの壁だった。一瞬、こんなかーペット買ったっけ? それで、干したりしてたっけ? と考えるが、まったくそんな覚えはない。その巨大カーペットの上下左右を見回し、上を向いてようやく気付いた。


「クネー?」

「わんっ!」

「えっ、でかっ……すご……」


思わず間抜けで直接的な感想が出た。部屋に上がる花についてきたクネーはその大きな顔で背中に甘えるようにすり寄ってくるが、巨体に見合ったその力強さに花はたたらを踏んだ。


「こけるこけるこける! クネー!」


何かを察した様子で巨犬クネーは体勢を戻すと、「クゥン」と寂しそうな声で喉を震わせた。今やクネーは、玄関の扉をやっとくぐれるくらいの大きさになっていた。彼にとってはもはやこのグリューネヴァルトの屋敷というにはこぢんまりとした建物は狭すぎるように思えた。


よく見ると廊下に落ちている毛も、この犬が長毛種であるせいか長髪である花の髪の毛と張り合えるくらいの長さだった。

もしかして、まだ大きくなるのか?


「おかえり、ハンナ。今日は少し遅かったな、心配したよ」


花のエプロンを付けたアデルモが奥から出てきた。これにおたまと三角巾があれば、「いかにも」だったのだが。

花の使っているかわいらしいエプロンをそれなりに鍛えたアデルモが着ているというところも、中世から近代の、つまり花にとってはずいぶん昔の時代の服装の上に、大量生産の恩恵を受けた画一的で現代的な意匠のエプロンを着ているというところも、どこか奇妙でおかしく、それでいて唯一無二だ。


「ただいま」

そう言う花の笑顔はいつもより明るい、というよりおかしくて笑いそうになるのを明るい表情に交えている。

花を手招きしてから、アデルモはエプロンを外しながらダイニングルームへ向かった。


「晩御飯、用意しておいた」

「ありがとう」

「どういたしまして。ところで、食べながら聞いてほしいことがあるんだ」


クネーの夕食は廊下の外に用意された。いまやバケツに一袋分のドッグフードが入れられるようになった。

痛い出費だ。


「クネーの様子がおかしいんだよ」

「あー。そうね、今までも成長が早いなとは思ってたけど、今日はなんだか変だと思った。顔が凛々しくなったような」

「いや、違うだろ、もっと目立つ変化があっただろ! 目を離してるすきにいつもの2倍くらいじゃすまない速度ででっかくなった!」

「あ、やっぱり? 家出るときは、ここまでじゃなかったと思ったんだよね」

〈正確にはいつもの4倍のスピードでした。残念ながら監視サーベイランス機能には現在大きな制限がかけられているため、録画はありません〉


一瞬食卓を沈黙が支配した。花は、「ドックフード代、どうしよう」と青くなっていたし、アデルモはまだ花に話していないもう一つの懸念事項をいつ伝えようかと考えていた。

沈黙を破ったのはシラーだった。


〈しかし、足音から推察するに、朝に花が家をでて、しばらくしてから一気に成長したようですね。1日あたりのスピードでは4倍かもしれませんが、それ以上でしょう。むしろ一気に体が2倍くらいになったと言う方が正しい表現かもしれません〉


自分の話をしていると分かったのだろうか、クネーが廊下から顔を覗かせて控えめな声で鳴いた。


〈そして、成長が終わってから一切の食事を取っていません。夕方の餌にも手を付けていませんね。そもそも検査していないので不明ですが、体重が急に増えるなんてありえませんよ。しかもこれだけ断食して、普通はこんなに元気でいられないはずです〉


アデルモは自分が報告しようと思っていたことを先にシラーが言ったので、ほっとして食事を食べ始めた。

一方花は心配そうに箸を止めて考え込んでいる。


「獣医さんとかに見せた方がいいのかなあ、獣医さんで分かるのかな?」

「獣医だって? 金がないと無理だろ。あ、ハンナは魔術師だから金、あるのか」

「いや、ないよ。うーん、スクロールを売りまくればなんとか……」

「無理するなよ。そもそも獣医じゃ難しいんじゃないか?」

「どうして?」


アデルモは片手で、まだ首にかけたままのカラの瓶を弄った。


「まあなあ、霊峰のものを飲んだんだから、どちらかというとそっちの研究者とか、それこそ魔術師。一応獣医に見せられるなら見せてもいいだろうけど、ジョアンナは怖いくらい異常がないっていってたぜ」

「そうなの?」

「そ、まあ、犬の体調が悪いってのを結構見てきたらしいから、獣医ほどじゃないが信用は出来ると思った。ハンナはどうだ?」

「そうだね、そう言われると、そうかも」


二人の心配をよそに、クネーはやはり食事にひとつも手を付けないまま夕食を終えた二人にじゃれつきに来た。その様子は溌溂としていて、まったく病の気配など感じさせないものだった。


花は夕食を片付けた後、机の上にあのテディベアを飾った。


話せば長くなる、アデルモに語って聞かせるのはまた明日にしよう。


病、と言えば。穏やかな夜の時間を満喫していた二人は、その暗い影がクネーとは全く別のところにひたひたと近づいていることに、まだ気付かないでいた。


(コレクション7 思い出のテディベア 完)

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