第23話 また明日

 考えることは大切だが、いつもそうしないといけない訳では無い、と花は思った。事情は人それぞれだし、考えてわからなくなった時は、思い切り休もう。


 結局花の問題を片付けるのはコリンナではない。そして、花は落ち着いて、深呼吸して、目の前の馬車から目を背けようとした。


 馬車の中には、所狭しとパンが――それも食パンが詰め込まれていたのだ。

 ツタの紋章の刻まれた黒い高級そうな馬車、その座席にこんもりと積まれている。コリンナが馬車の扉を開けると、ふわりとパンの香りに包まれた。


〈36斤あります〉


 香ばしいかおりにふっと心の疲れが癒される。花は緩んだ顔を見られないように頬を手で覆った。


「こほん」


 気持ちを切り替える咳払い。


「すみません、籠にしかないと思って……」


 気まずそうな花に、コリンナは苦笑いした。これを食べ切ろうと思ったら相当の大所帯が必要だ。


「そうですよね、流石にこれは……多いですよね」


 確かに、流石にこれだけの量を2人で食べ切るのは到底無理だ。あるか分からないが保存の魔法陣でも使えたら良かったのだが。


「あの、2斤頂いてもいい? 近所の方にお裾分けしたくて」


 花はヘルガにパンを持って帰ることにした。クネーをカーヤと遊ばせてもらうための賄賂のつもりだ。


「もちろんです! あ、また明日……いえ、明後日ですね、明後日に、その、感想を聞かせて頂いてもいいですか? この形のパン、実は初めての物なんです」


 花はコリンナから1斤の包みを二つ受け取り、お代の硬貨をコリンナに握らせた。


「じゃあまた明後日、ここでいい?」


「はい! きっとパンは売れないから、お昼すぎくらいからここに居ると思います」


 少し寂しそうだった。花は小さな声でシラーに話しかける。


「ねえ、販路開拓とかできないの?」


〈断られる理由が分からないため、有効性の診断の精度が低レベルです。現在確認できる販路の中では、レミトロフ通り以南の地域での振り売り、あるいはさらにその辺縁の地域で売ることです〉


「なるほど」

(ジョアンヌのドッグフードも、何とか出来ないかな? 本人が望んでいないのを無理にとは言わないけど……)


「どうかしました?」


 花はパン籠を抱え直して首を振った。


「いえ、なんでも。ちょっと考え事をね」


 そうして、二人はその場を離れた。コリンナは馬車に乗って、花は乗合馬車の駅まで歩いて。


「シラー、なんか今日は色んな話を聞いたわね」


〈はい、録音を聞きますか〉


「ううん、なんか、色々わかんなくなっちゃったわ。それぞれの事情と意見があるし、生きるって難しいなあ」


〈……その問題は、私の能力では試算に時間がかかりすぎてしまいそうです。試算しますか?〉


 花は首を振った。今はともかく、何も考えたくなかった。来た時と同じようにタラップを踏んでレミトロフ通りに降り立つと、今日聞いた話は昨日に置いてきたような気持ちになった。


「やっぱりね、考えすぎてもダメかなって。初心を思い出すのが大事だと思ったの。頭を空っぽにしてね」


〈わかりました。ご報告は後にしますか?〉


「うーん、そうだね、とりあえず……」


 花はヘルガの家へ行った。玄関をノックすると、一人で留守番をしていたらしいカーヤが出てくる。

 花は食パンを1斤と、白パンを二つカーヤに預けた。今度クネーと遊ぶついでに味の感想を聞かせてね、と言うと、「これも天子さまのめぐみ」とカーヤは呟いた。本当に信心深いことだ。


〈マスター〉


 家に向かう花に、シラーが静かに話しかけた。


〈私の試算に時間がかかるということは、答えを出すのが難しいという事です。良い、悪いの判断で済ませないのです。目の前の一日の幸せに目を向けてみませんか? ご要望があれば、リラクゼーションミュージックを再生します〉


 花は人目をはばからず笑った。シラーは時々分かっているような、分かっていないようなことを言う。

 けれど、家に着いた花は笑った顔のままぴたりと動きを止めてしまった。それは、自動ドアに貼り付けられたメモのせいだった。


[ハンナ。ごめんなさい、台所に洗剤をぶちまけて泡だらけにしてしまいました。帰ったら片付けます]


 シラーに報告を聞くまでもなかった。

 台所は概ね片付いていたものの、調理台が洗剤まみれのままだった。シラーに任せてしまっても構わないが、なんだか悪い気がして、花は手伝うことにした。


 程なくしてアデルモが帰宅し、2人と1機はせっせと台所を片付けた。片付ける最中、花はこの長い一日であったことを、アデルモに話して聞かせた。


 花がどうして、アデルモに小金貨を差し出そうとしたのかも。


〈あーーっ。 その石鹸は違います〉


 台所を仕切るシラーの声が、重い話を彩った。

 全てを片付け終えた時、夜はすっかり更けていた。アデルモは最後暫く何事か考えている様子で静かになった。


〈お二人ともおやすみなさい。アラーム機能はオンにしておきます〉


「おやすみ、アデルモ、シラー」


 階段を上る花をアデルモが一瞬呼び止めた。


「ハンナ」


 花は手すりを持ったまま振り返る。


「騎士団に入ったら、お金は返す。それでどうだ?」


 花は自然と頬を緩めた。


「うん」


「じゃあ、ハンナ、シラー、おやすみ。また明日」


〈また明日〉


 シラーが就寝前に、おやすみ、以外の挨拶を初めてした。

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