第20話 しばらくはあなたのために作らなくちゃね
どこの世界にも有名人がいるのは同じらしい。
「バルバラっていう人が、手伝ってくれたの」
「バルバラが?」
花は思わず笑みがこぼれた。また名前を聞くなんて。
「知ってるみたいね。簡単なことよ。彼女は犬を拾って、どうやって飼えばいいのか悩んでた。私は愛犬が死んで、犬の体にいいごはんを作ってあげたかった」
彼女は両手の人差し指を立てた後、ゆっくりとそれを合わせて、「そうして出会ったわけね」と言った。
テーブルに備えられた収納から、カタログのよなものを取り出す。そこには、他店のものと思しきドッグフードの説明が書かれている。
「一昔前に貴族の間で犬がブームだったの。みんなが競って買いにきたわ。それで、どうなったと思う? みんなね、超高級ドッグフードを食べさせて、シルクの服を着せるのよ」
深いため息。カタログには地方名産の素材の名前がずらりと並んでいた。
「別にいいのよ、いい暮らしをさせてあげられるのは。でもね、私はハウプトバーンホフの端っこに住んでるから、いろいろ分かるの。下町の家に飼われる子たちは短命だわ。病気になった犬もたくさん見てきた」
カタログを仕舞うと、彼女は立ち上がって窓を大きく開いた。ハウプトバーンホフ通りから、レミトロフ通りの方まで一望できる。
犬はなにも貴族だけのものではない。ずっと昔から、犬は人間とともに暮らしてきたのだ、シラー曰く。
〈ペットフードが初めてできたのは1860年と言われています。それほど昔ではないともいえますし、歴史が長いとも言えますね。……あっちょっと家で問題が、失礼します〉
「みんながみんないいものを買えるわけじゃないわ。体に悪いってわかっててもね、そんないい暮らしをできる人たちばっかりじゃないの」
『あの子になにも買ってあげられなくて』と、寂しそうだったヘルガ。きっとそんなひとはたくさんいるだろう。
南市とこのあたりの店構えの違いは一目瞭然だ。貧富の差がない国なんてきっと存在しない。
「私はみんなの飢えをなくすなんてできないわ、それってもっと偉い人がやるべきことでしょ? だけどね、私、動物のことは人一倍詳しいのよ」
花は立ち上がって彼女の隣に立った。見上げると、空はつながって、ずっと遠くまで広がっていた。
この家は親から継いだものだという。小さいころから動物に囲まれ、一緒に育ってきたのなら、確かに詳しいだろう。
「それでドッグフードを?」
「そうね、安いドッグフードを作りたかったの。みんなのお家の子たちが長生きできますようにって」
花は、今朝抱いたシラーのぬくもりを思い出して、彼女の言葉を胸の中で反芻した。
(長生きできますように)
「でもダメだった」
窓のサッシに頬杖をついてそういう彼女の目は、遠い昔、子供時代の後悔を語っているかのようだった。
「いろんなお店に持ち込んでみたけど、どこもすぐに追い返されたわ。店を休んで振り売りもしてみたけど……」
言葉が途切れた。先ほどまでは思い出話のようだったのに、急に声が今を生きているように震えた。
沈黙。花には想像しえない積年の努力が、震える肩に重くのしかかっていた。
少しの間泣くのを堪えて、詰まったような声で話を続ける。
「……ある男が、石を投げてこう言ったわ。金持ちは一人もいないぞってね。違うのに、私は、私は」
それは希望をもっていた彼女には耐えがたい言葉だったに違いない。金持ちを探していたんじゃない、そこに生きる人々に、届けたいものがあったからだ。
だけど、その”ある男”は、彼女からたくさんのものを奪っていった。
すぅ、と息を吸う。
「ただ、知ってほしかったの。安いドッグフードもあるって、金持ちだけのものじゃないわ。私たちのよ、私たちのもの」
彼女はまるで自分を傷つけることで慰めるかのように、自嘲した。
「バカみたいでしょ、必死になって、作ったくせに。欲しい人は一人もいなかった。いいものを作ったと思っても、お客さんに受け入れられなきゃ意味はないって、思い知ったわ」
声が低くなった。薄暗い恨みにも似た感情が声音にちらつく。
そして、花の目に映ったのは失望だった。何度も立ち上がったけれど、とうとう、諦めてしまった、そんな人の失望だった。
バカみたい、と過去の自分を嗤うのはどんなに悲しいことだろう。
けれど彼女は深呼吸のあとににっこりと笑って思い出話を終えた。
「バルバラには振り売りをし始める時に出会ったの。いろいろアドバイスをもらって、もっと良いものを作れるようにね。それで最初のお客さんになってくれたけどうまくいかなくて。それ以来会ってないわ。あの人、元気にしてる?」
花は、彼女の寂しそうな手を握って、こう言った。
「元気よ、すごく元気」
「よかった。ひきとめてごめんなさい」
花は首を振る。この店が一番、レミトロフ通り近くてよかった。たまたま、シラーがここに案内してくれてよかった、と思った。
「いいえ、また買いに来るわ」
今の花に言える精一杯だった。きっといつか時代が追いつく、とか、絶対売れる、とか。無責任なことは言いたくなかった
彼女はひっこめた涙を眼尻に乗せて頷く。
「しばらくはあなたのために作らなくちゃね」
その時、開いた窓の下から、聞き覚えのある声——いや、泣き声が聞こえてきた。
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