第18話 私は今ね、煩悩と戦ってるの
「まって、アデルモ。私は今ね、煩悩と戦ってるの」
ソファの上に胡坐をかいた花はそう言った。
そう、花は今、煩悩と戦っている。魔法のペンや珍しい食材をはじめとした度重なる出費が収入源のない財布を圧迫しつつあるのだ。
たとえ、いつもと違う場所にあるペットショップに行くからと言って、小金貨を握りしめてはいけない。
モップを片手に話しかけようとしたアデルモは、素直に頷いてダイニングの椅子に座る。
不思議なことやおかしなことがあっても、彼は大抵「ふーん」とか「すごい……」と受け入れてしまう。家におかしなものをたくさん抱えている花には有難い柔軟さであった。
やがて花は深呼吸をして、足を下す。
「もういいのか?」
「ええ、仏像にでもなれそうな気分」
アデルモは立ち上がってモップとバケツを持つ。
「どの部屋を優先的に片付けるのか教えてほしくて」
「ああ、それなら……」
〈台所です〉
二人はシラーの腕を見た。
〈水回りは真っ先にやるべきです〉
花は肩を竦める。
「じゃあそれで」
「わかった、台所はずいぶん酷そうだったから、ちょっと時間がかかるぞ」
「2か月あるからゆっくりで大丈夫、ありがとう」
花は外出用の鞄を手に取った。
「ちょっと出てくるから、クネーをよろしくね!」
***
乗合馬車で所要時間25分は、花が想像していたようなものではなかった。
まず、馬車の乗車時間は10分だった。25分だと思っていた花はすっかり寝入ってしまい、隣に座っていた女に起こされた。
「ちょっと、あなた、起きなさいよ」
「んん?」
「こんなとこで寝るなんてバカなの? 財布を取られても知らないわよ!」
「ありがとう……」
寝起きでぼーっとしている花に女は力強い小声でそう言った。
〈次の駅で降りてください〉
思っていたより早い到着に、慌てて御者に声をかける。
「次、次降ります!」
狭い車内を身をかがめて潜り、花はタラップを踏んだ。
降り立った場所は、何かの境界のようだった。それを花に分からせたのは、石畳である。
花の自宅周りの石畳は丸っこくて不揃いなものが多い。だが、今立っている場所は途中から綺麗に切りそろえられた長方形が整然と並んでいて、目地も丁寧に埋められていた。
〈ここはハウプトバーンホフ通りです。乗合馬車はここより先には進めません〉
花はまっすぐ続く道の遠くを、目を凝らして見る。
「凄く整備されてるし、遠くになんかキラキラした馬車が見えるわよ。なんで? こっちの方が道も広いし〉
〈貴族や富裕層の馬車が通るからです。20年以上前の帝都土地計画整備規程に基づいた情報ですが、馬車が引き返しましたから、今も同じでしょう〉
確かに、言われてみれば道行く人の服装や仕草は、南市とはかなり違っていた。
店舗も、露店は非常に少なく、かわりにところどころ大きなショウウインドウが設けられた店がある。総じて高級そうな店構えで、ショウウインドウのガラスには時折光の加減で魔法陣の一部が見えた。
〈目的地まで徒歩15分です〉
花はため息を吐いた。
「自転車があったらなあ」
ハウプトバーンホフ通りには、南市のような騒がしさはなかったが、大型百貨店のようなにぎやかさがあった。
時折、花とそっくりな色合いのブラウスにマキシスカートの女が、大きな箱を抱えて店から出てくる。シラーに今の服装を「屋敷の使用人風」と言われた理由がなんとなく分かった。
〈目的地周辺に到着しました。右手に見える青い建物がそうです。看板に「ツィンク」とあるはずです〉
「あー、見えた」
3軒向こうだ。とはいえ、この通りにある店はどれも大きい。必ずと言っていいほど、馬車が乗り入れられる駐車場のような空間が設けてあるからだ。
「げ! また来たのか、お前」
ペットショップの一つ手前のレストランから出てきた男が、玄関先で顔を歪めている。
「ひどい、お願いです、受け取ってください!」
そう言ってエプロンを着た男にすがる大きな籠を持った女の子。彼女は赤毛をおさげにして、いかにも使用人風の服を着ていた。
「嫌だよ、帰れ帰れ。うちには荷が重いって」
女の子はそばかすをくしゃっとしていかにも悲しそうな、哀れっぽい表情をした。
「そう言わずに~」
おさげの女の子は無精ひげの男の背を押して、レストランの中に消えていく。
〈マスター!〉
いつもと違う音程のシラーの声に、花は驚いて立ち止まった。
目の前にはペットショップの立て看板。あぶないあぶない。
花は看板を回りこんで、ペットショップ「ツィンク」の扉を開けた。
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