第15話 天子の恵み

「カーヤ、大丈夫。クネーは私たちが預かるわ。しっかり面倒を見るから、また明日おいで」



 ***



 シラーの”腕”の紹介は後でする事にした。アデルモは運んできた荷物を置き、花はクネーを手頃なサイズのカゴに寝かせる。

 その後、シラーの指示に従ってアデルモと花は丹念に手洗いとうがいをした。


〈クネーに呼吸器症状が確認されます。接触を最低限にし、入室時にはマスクを着用してください〉


「部屋に入る時はこれ使ってね」


 花は部屋から持ってきた使い捨てマスクをアデルモに押し付けた。アデルモはジーッと手元のそれを見つめたあと静かに片腕に通し、まるで手甲てっこうのように……。


「ちがうちがう! こう!」


 花がマスクをつけて見せると、アデルモは真似をして慎重に、マスクの骨を指で押し付けて鼻に添わせた。


〈マスター、分析が終了しました〉


 花は頷いた。


「中に入るわ」


「俺も」


「うつるかもしれないでしょ」


「犬から人間に?」


「可能性の話よ」


 アデルモは不服そうに俯いてから、また、胸元の瓶を指先で撫でた。


「俺はあの犬が捨てられているのを知っていて、金が無いのを理由にずっと放っていた。後悔しても意味は無いが……手伝うから、中に入れて欲しい」


(まあ、確かにただの風邪とか、食欲不振かもしれないし)

「分かった、じゃあ一緒にね」


 クネーはひゅう、ひゅうと苦しそうな息遣いをしていた。使い捨てのウエットティッシュで体を拭き、ゴミを纏めたビニール袋の口を縛る。汚れが取れて幾分かましに見えた。


「水もあまり飲んでくれないわね」


 花とアデルモは手を清めると近くのソファに座った。

 シラーの見立てによれば、クネーの状態は思ったより悪い。


「クネーは、助からないかもしれない」


 花はシラーの解説を掻い摘んでアデルモに話した。


「病ということか?」


「そう、呼吸器と、神経にも影響が及んでて、時々痙攣もしてる。自力で呼吸出来なくなるのも、そう遠くないかも」


 ウイルス性の感染症、シラーが言うには体力勝負で、クネーの体がどれだけ戦えるかが重要だ。けれどクネーは捨てられていて満足に食事も取れておらず、体も小さい。

 症状も随分重くなっているようだ。


「すごい、詳しいんだな」


「ウーン、私が詳しいってのはちょっとちがうかも……」


〈お褒めにあずかり光栄です〉


 その時、クネーが大きく咳き込んだ。二人は顔を見合わせて立ち上がる。

 花は犬の表情がこれ程までに人間味に溢れることを初めて知った。喉が痛いのか、飲み込む力がないのか、与えた水は口元を濡らすので精一杯だ。


「ハンナ、運命を信じるか?」


 アデルモは唐突に尋ねた。


「運命?」


「生き物には定められた運命があって、病も、成功も決められたものだと。だから、病にかかればそれを受け入れることは、運命の導きだと」


 天子様の導きとかいうやつだろうか?


〈少なくとも帝都の天の大陸伝説とは別の系譜のようですね。一部の地方に根強く残る土着信仰かもしれません〉


 アデルモの育った地方の信仰か。

 花はその意志を図りかねたが、質問には素直に答えた。


「終わったことには、そうかもね。だけど、やらなきゃ分からないこともあるでしょ。思いにもよらないことがこれから起こるかもしれないし。だから、未来は、自分で選ぶもの、かな」


「そうか」


 アデルモは意を決して、ペンダントを首から外した。

 波打つ口の小瓶、万能の薬という液体。


「それ、使うの……?」


 瓶を手の中で握り、アデルモは逡巡しているようだった。今彼の手の中にあるのは、夢を叶える武闘大会への切符に等しい。

 アデルモはまるで自分を説得するようにこう言った。


「親に捨てられてから、ここに辿り付くまで、沢山の人に助けられてきた。だから本当は子犬を見かけた時も、助けたかったんだ」


 花は、今朝、アデルモの事情を聞いた時の事を思い出した。花だって、助けたかった。ただ、思ったより大金でしり込みしただけ……。

 それに、クネーも助けたい。だけど自分がその瓶の中身を使うことを促すのは、なんだか後ろめたくて、小さな声で進言した。


「中身が無かったら、きっと骨董店でも値はつかないわよ」


 アデルモはふっと、この上なく優しく微笑んだ。


「分かってる」


「本物かどうかも、分からないんでしょ」


「試す価値はあるな」


 花は自分の言葉をそっくり返されて、それ以上口を挟むのを辞めた。瓶はアデルモの物だ、どうするかは彼が決めるべきだろう。


「金は後でも稼げるが、命は戻らない。時間も……俺がこの子犬を見捨てた時には戻らない」


 スポン、と空気を弾いてアデルモは瓶の蓋を開けた。中に満たされたほんの僅かな液体を、子犬の口元に落としていく。

 触れた途端、透明の液体はさらさらと輝く砂のように変化して、クネーの体を包んだ。とても偽物とは思えない。


〈呼吸器症状が改善しました。体温も徐々に正常範囲に戻りつつあります。

 脱水症状が改善されています。薬の投与前に見られた16の症状のうち5が解消されました。残りの症状も順に快方へ向かっています〉


 花とアデルモは安堵のため息を吐いた。


「きっと大丈夫だろう」


「うん」


「まさか、本物だった、なんてな……。ハンナ、この薬が何と呼ばれているか知っているか?」


 武闘大会に出るための元手を失ったというのに、アデルモはすっきりとし笑顔を浮かべて言った。


「天子の恵みクネー



 ***



 程なくして、アデルモは仕事に出かけた。花はクネーが穏やかな寝息をたてはじめたのを見届け、2階へ戻って行く。

 考えごとをしながら上の空で歩くので、シラーが何度か〈重心が後ろにズレています!〉と花の転倒を予防した。


 自室についた花は、重い茶封筒を手にして座っていた。


〈マスター、念の為お尋ねします。息子や、娘を名乗る人からの要求ではありませんか? 宅配便を使って現金を送れという指示は詐欺です〉


 花はふっと気が抜けたように笑う。


「それ、オレオレ詐欺防止用?」


〈……防犯規定プロトコルの条件に一致しましたので〉


「大丈夫、無心された訳じゃないから。それより、二ヶ月アデルモが働いて、参加金にいくら足りないか教えてよ」


 花は深呼吸して茶封筒から出したお金を数え始めた。


(会社ではいつも、”金の使い方を考えろ!”って怒られてたな。特にクビになる直前は)


 だけどこれは、きっと使い方だ――。

 お金は後でも稼げるが、アデルモにとっては10年に1度のチャンスなのだから。


「お金のことは明日言おう……」


〈アラーム機能をオンにします。それとマスター、外部デバイスが使えないのは非効率的ですから、私の存在も紹介してくださいね〉


「はいはい、おやすみ」

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