第10話 このよのよきものはすべて、てんしさまの恵みだって



〈マスター、今日の予定は南支所です。書類はお持ちになりましたか?

 所要時間は乗合馬車でおよそ10分です。

 通信機マイクロカムのペアリングチェック……感度良好。接続しました。

 気を付けて行ってらっしゃい〉



 ***


「クゥン」


 翌朝、花が外に出ると、研究所のそばに子犬を抱えた女の子が立っていた。大きな門と、その側に立つ男の間に隠れるようにしていて、しきりに子犬に話しかけている。


「しぃーっ! ほえちゃだめだよ、ママに怒られるから」


「話しかけてもわからないだろう」


 花は会話に気を取られながらも門から離れて駅へ行こうとした。ジャリ。足元で音がする。

 男がはっとこちらを見た。


 短く切りそろえられた黒髪にやさしいグリーンの瞳。素朴な衣服に似合わず端正な顔立ちをしている。

 見知らぬ人だが、花はリューバッハ市民らしく明るく挨拶をした。


「こんにちは、いい朝ですね」


 男は落ち着かなげにもそもそと衣を整えて握手しようと手を差し出した。


「こんにちは。軒先に陣取ってしまい申し訳ない」

「いえ、気にしないで。かわいいワンちゃんですね」


 花は男の手を取ってそう言った。線の細い顔立ちとは裏腹に彼の手はごつごつとしていてところどころにがあった。


「この子が昨日拾ったらしい。少し弱っているな」

「このこよわってる?」

「ああそうだ、餌を柔らかくして食べさせてやれ」


 花は女の子に近寄ると人差し指で子犬をぬぐうように触れてその温かさに微笑む。


「名前はなんていうの?」

「わたしカーヤっていうの!」


 可愛らしい勘違いにくすくすと笑って、花はもう一度尋ねた。


「じゃあカーヤ、ワンちゃんのお名前は?」


 カーヤはぎゅっと眉間にしわを寄せて考え始め、やがてキリっとした表情で花と視線を合わせる。


恵みクネーにする! 神父さまが、このよのよきものはすべて、てんしさまの恵みクネーだっていってたから」

「クネーとカーヤね。わたしはハンナ、よろしく」

「よろしくね、お姉ちゃん」


 男は二人の会話を聞いて目を細め、無意識に自分の胸元を撫でた。首元にはペンダントの紐が見えている。


〈マスター、経路と毎日の出発時間から考えて、そろそろ乗合馬車が到着します。午前の馬車に乗るには、駅へ向かってください〉


 花は名残おしそうに手を振って軒先を後にした。


 午前の乗合馬車は昨日ほど混み合ってはいなかった。上品そうな装飾のドレスを着た婦人が供の女を一人つれて乗っているだけだ。

 花は昨日とさほど変わりのない服装で、婦人の「なんでこの馬車に?」と言いたげな視線を受けながら南支所へ向かう。


 支所の受付の男、ハンスは昨日と同じ姿勢で座っていた。


「ああ、どうも、お嬢さん。札の受け取りですか?」


「はい、よろしくお願いします」


「ちょっと待ってくださいね」


「じゃあ、先に書類を提出してもいいですか?」


「わかりました。……ヘム様! 魔術師グリューネヴァルトの継承者さんがいらっしゃいました」


 ハンスは奥に呼びかけると、花に椅子をすすめた。花は代わりにシラーが書いてくれた書類を提出する。

 自署じゃなきゃだめとは書いていないし、なによりシラーの方がよくわかっているからだ。


〈書類は大きく分けて三つ。まず、現在のマスターの個人的な状況の報告です。この世界に来たばかりなのでほとんど書くところがありませんでした。

 次に継承する遺産のすべての内容。これは昨日この支所でもらった書類を書き写しただけです。

 最後の一つはマスターの魔術師としての情報ですが、これも認定魔術師でないマスターは記載することがあまりありませんでした。業績もまだまだこれからですから〉


 念のために書類の写しをスキャンしてあるから、何かあったらあとでも確認ができるだろう。


「それじゃあ、書類は全部そろってますね、ウン、大丈夫。あっ、まだ認定魔術師じゃないんですね。師匠もいないんですか?」


 花は肩を竦めた。そもそもグリューネヴァルト以外の魔術師も知らない。


「とりあえず遺産の継承についてはこれで受理しておきます。じゃあ残りはヘム様の方から」


 ヘムが大きなおなかを揺すりながら花の前のカウンターにやってきた。


「こちらが仮発行の札です」


 花は薄い青色のガラス板のようなものを受け取った。撫でるとすべすべして気持ちいい。


「認定魔術師ではいらっしゃらないということで、この札の有効期限は3か月です。3か月以内に魔術学院アカヴィディアに入学されるか、認定魔術師となるか。決まったらまたおいでください、正式なものが発行できますよ」


「3か月……短くないですか?」


「まさか、あなたはかなり強い力を持っている。弟子としても引っ張りだこなのでは? むしろ3か月も必要とは思えません。心配ならアカヴィディアに行かれれば良いですよ。優秀な生徒を拒みはしないだろうから」


「はあ、そうですかね~」


「そうですとも」


 花は耳の後ろをトントン、と叩いた。


〈少なくとも記録によれば、魔術師は常に人手不足の状態です。学院を卒業する優秀な魔術師は弟子として引っ張りだこになります。〉


「使えてないけどね」


「……何か?」


「いえ、なんでも。ありがとうございました」


「どういたしまして。今日はお出かけですか?」


「はい、エッポの骨董店に」


 ヘムは変な顔をした。花は気にせず支所を後にしたが、ヘムがハンスにこそこそと噂をしに行く。


「ウワ、あの有名な? 入れてもらえるんですかね?」

「若くても力を証明でれば、と言うし……」

「いくら力が強くても、私は彼女が無事に出てこられるか心配ですよ」


 シラーの通信機マイクロカムはその会話をとらえたが、あえて花に報告することはなかった。

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