星降夜

ケイ

星降夜

 恥ずかしながら、私はそのとき死のうと考えていたのです。

 深夜の高校に忍び込み、屋上から飛び降りるつもりでした。律儀に制服を身に纏い、Yシャツの白を死装束のように湛えていました。


「やあ、そこのお兄さん」


 屋上と虚空を隔てる鉄柵を乗り越えようと手をかけたとき、背後からしゃがれた男の声がしました。


「とっておきの夢は、ご入用ではありませんか」


 私が振り返ると、男はニッカリと笑いました。

 くたびれた背広に身を包んだ男は、煤けた革製の鞄から、 白くて黒くて、それでいて、色彩豊かなボールのようなものを取り出しました。


「いつもなら金を取るところですが、もうこの仕事を辞めるのでね」


 男が夢を宙に放ると、それは放物線を描き、 思わず差し出した私の手へすっぽりと収まりました。

 夢は頼りなく震えて、重く軽く私の掌に温もりを感じさせました。

 その細やかな輝きは六等星を彷彿とさせます。


 なぜこれを自分にくれるのかと、男に問おうと口を開きかけたとき、私と男から少し離れたところにある校舎内に続く階段から、また別の声が上がりました。


「いたぞ!」


 私と男がそちらを見やると、顔を赤く上気させた、私の担任の先生が立っていました。

 先生の手には、先ほど私が男から受け取った夢と似たものが握られています。


 にわかに、大勢の人が階段を踏み鳴らす音がさざめき立ち始めました。

屋上に集まってくる大衆には、私が顔を見知った人もれいば、全くの赤の他人まで様々な顔が覗いていました。

 人々の顔の色は、皆同じく、奮起するヒヒの尻のように赤く染まっています。


「このインチキ野郎め」


 と、先生は叫んで、手に持っていた夢を地面に叩きつけました。


「叶わない夢ばかり、売りつける」


 夢は腐ったトマトと等しく、つぶれて、その周囲に醜い汁を撒き散らしました。 フルフルと悲しげに震えて、それっきり動かなくなりました。


「叶わなければ、夢じゃない」


 と、先生は「夢を抱け」と私に言った口で、男を詰りました。

 大衆は先生の言葉に呼応し、「金を返せ」、「叶う夢をよこせ」と、口々に男を嬲り始めます。


 男はズボンのポケットから、皺だらけのハンカチを取り出し、額の汗を拭いました。


 すると、群衆の中から一人の女が飛び出して、男につかみかかろうとしました。男は避けようとしましたが、女に辛うじて掴まれた鞄の隅が大きく裂かれてしまいます。


「これはたまらない」


 と、男は言って、フワリフウワリと、夜の空へ逃げて行きます。

 真っ赤な群衆も、男に続いて、夜の空を走っていきます。


 私は夜空を惑うその赤星をしばらく見つめていました。

 赤星の周りには、男のカバンから溢れた夢たちが煌めいています。夢たちは、いつしか流星となって、夜空を駆けていきました。


 私は瞳を閉じて、そっと手の中の夢を抱きました。

 気がつけば、あたりは再び静寂の帳に包まれていました。キンと澄んだ静謐さが耳を優しく撫ぜます。

 もし耳を澄ませたのならば、きっと私の頬を伝う滴の音が、 聞こえていたのかもしれません。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

星降夜 ケイ @undophi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ