第16話 十五日目 - 4


 吹き付ける猛烈な風。


 僕は慌ててルネスとアーシェルの元へと跳ね、二人を抱えて魔王から距離を取った。

 何が起きているのかは分からないが、少なくとも良くないことが起こるのだろうとは感じる。


 大きく下がって二人を降ろした僕は、再び魔王の様子を伺ってみる。しかし荒れ狂う風の中の様子を知ることは出来なかった。


「貴方、その怪我……っ!」


 ふとルネスに声を掛けられて、僕はそちらに目を向ける。

 するとルネスとアーシェルの服が、僕の血によって赤く汚れてしまったのだと気づく。


「ごめん。血が……」


「違う!違うわよ!そうじゃなくて、貴方どれだけ無茶をしたの!?身体中、もうボロボロじゃない……っ!」


 そう話すルネスは、僕よりも悲痛そうに顔を歪めていた。

 彼女は僕の身体に触れようとするが、触れられるほど傷の無い場所が見当たらなかったのか、行き場を失ったルネスの両手がふらふらを宙を舞う。


「僕は平気だよ。それより二人は、出来る限りここから離れて欲し」


「嫌よ!逃げるならユリムも一緒!貴方が戦えない状態なのは、私でも一目で分かる。……お願いだから、一緒に逃げて」


「私も同じ意見です。魔法でも診させて貰いましたが、貴方の身体は明らかに限界を超えています。……これ以上は、本当に無茶です。逃げましょう」


 二人が本気で心配してくれているのは間違いないし、そう思ってくれること自体は嬉しく感じた。


 しかし現実問題として、僕が二人を抱えて逃げ切るのは不可能だ。魔王に流れ込む異常な量の魔素に、これから起こる出来事が、どれほど悲惨かは容易に分かる。


 二人の壁になるにせよ、魔王を倒しきるにせよ、僕には戦う以外の選択肢は無かった。


「……その左目、開かないんですよね?」


「右目が見えれば十分だよ」


「巫山戯ないでください。……時間さえ貰えれば、私が必ず治してみせますから。ここは退くべきです」


 じっとアーシェルは、僕を見る。

 その瞳は潤んでいて、必死に涙を堪えているのだと分かった。


「アーシェル。あの嵐の中心で何が起きてるか、魔法で分かったりする?」


「……ええ。もう、調べてあります」


「魔王はどうなってた?」


「物凄いペースで、力を蓄えている最中でした。恐らくは変身、の類だと思います。致死量の怪我を負うと、その瞬間に自動で発動する魔法です」


「……なるほど。なら僕が二人を抱えて、その変身後の魔王から逃げ切れると思う?」


「……。私を、置いて。ルネス一人だけなら、恐らくギリギリ……かと」


「嘘つかないでよ。例え僕一人で走ったとしても、絶対に逃げ切れない。アーシェルなら分かってるでしょ」


「可能性の、話です。貴方が魔王様と戦って無事に済む確率を考えれば、遥かにマシだと言っているんです……っ」


 震える声で、訴えかけるようにアーシェルは口を開く。

 あと一度でも瞬きをすれば、それだけで涙が溢れそうな表情で、強く拳を握り締めていた。


 魔王の纏う風は一層強くなり、空模様すら変わり始める。

 分厚い雲が空を覆って、唐突に日が落ちたかのように暗がりが満ちた。


 残された時間は少ない。


「……アーシェル。僕が魔王に刃向かったのは、ルネスを助ける為だ。助けると決めた瞬間から、死ぬ覚悟は出来てる」


「……」


「言いたいことがあるのは分かる、けど。どうかルネスを助けるのを手伝ってくれないか」


 無言で、見合う。


「ハッキリ言うよ。僕らの選択肢は二つだ」


「……二つ?」


 呟いたのはルネス。

 アーシェルは恐らく、僕の言いたいことを既に理解しているのだろう。


 言い切るように、強く、僕は口を開けた。


「三人で逃げて全員殺されるか。もしくは――僕が、魔王を倒すか」


「……っ」


 だから無茶でもなんでもやるしかないんだよ、と続ける。


 突然、雨が降り始めた。

 それが魔王によるものか、はたまた偶然かは分からない。

 ただ世界そのものが、僕らに襲いかかってくるような不気味さを肌で感じる。


「アーシェル、僕に力を貸してくれ。僕を信じて、ルネスをもう少しだけ守って欲しい。……絶対、絶対に勝ってみせるから」


 残った右目にありったけの決意を灯しながら、その意志をアーシェルにぶつけた。


 アーシェルは俯き、呻き、悩み、頭を掻き毟り。

 髪を纏めていた髪留めを、雨に濡れた地面に叩き付け、そして――


「……ッ。分かり、ました。死んだら許しませんからね」


――僕を睨みつけながら、ルネスの手を握った。


 唐突に手を掴まれたルネスは、驚きの目で僕とアーシェルを見る。それは信じられないものを見るような、或いは嫌だという言葉を我慢しているような。


 そんなルネスに僕は、微笑みかける。


 僕には彼女に伝えたい言葉があった。ユーリシュとしてでは話せない、ユリムが口にしなくてはならない言葉である。


 ルネスにはこんなときに何を、と思われるかもしれないが、でも仕方ない。今を逃したら、次に伝えられるのは来世だって可能性もあるのだから。


「ルネス」


「……なに、よ」


 辛そうに唇を震わせるルネスを見て、僕は不謹慎にも彼女を可愛いと思う。

 そしてこんなに可愛いルネスが相手であれば、僕がこんな感情を抱くのも仕方ない、とも思った。


 やや頬が強ばる。

 演技は得意なはずなのに、素の表情を隠しきれない。

 しかし僕は、まぁいいやと色々なものを諦めながら、言葉を続けることにした。

 

「旅に出る前の僕は少し幼すぎて、ちゃんと自分の感情を理解出来てなかったんだけどさ。この魔王城でルネスと顔を合わせて、すぐに気づいた」


 少し溜めながら、ゆっくりと、心を込めて。


「――僕はあの頃から、ルネスのことが好きだったみたい」


 ずっと言いたかったセリフを、告げた。


 ルネスの顔が固まった。

 ぽかんと目も口も開いたまま、僕を見上げて動けずにいる。


 その後ワンテンポ遅れて徐々に徐々にと、その顔が赤く染まっていく。頭から煙を噴きそうなほどに、混乱しているように見えた。


 さて彼女がどんな返事をくれるのか、というタイミングで――


 魔王を包む暴風が、消えた。

 残念ながら、時間切れらしい。


「……空気読めよ魔王。やっぱ嫌いだわお前。……アーシェル、ルネスを頼んだよ」


「はい、全力で守ります。……それはそれとして、あとで乙女的な理由で貴方の顔面をぶん殴りますが、許してくださいね」


「なんでさ」


 何故か不穏なセリフを残して、アーシェルはルネスの手を引いて離れていった。

 お前に乙女的な部分なんて無いだろ、とつい言い返したくなるが、明らかに火に油だったので僕は黙ることにする。


 そうして僕は、再び魔王と向かい合った。


 これは僕が生を受けてから初めて出会う、決して負けられない戦いだ。

 僕はルネスともう一度話すまで、絶対に死ねない。





☆彡 ☆彡 ☆彡






 魔王の姿は白かった。

 真っ白ではない、薄汚れた白。

 まるで皮膚全てが頑丈な骨に変わったかのような、見ただけでは、生きているのか死んでいるのかすら分からない姿である。


 その顔には眼球も舌も歯もなく、代わりにあるのは空洞――ではなく、底知れぬ闇。

 三つの穴が、全ての光を飲み込むように黒々と佇んでいた。

 

 表情は一切動かせないようで、無のままに固まったまま。

 元から表情なんてほとんど変えない奴だったから、特に問題もないのだろうが、しかし無表情のままに叩き付けられる殺意は、下手に睨まれるよりも遥かに気味が悪かった。


 全身に纏われた魔素はおぞましい程に濃密で、恐らく以前までの僕でもハッキリと視認出来たのだろうと思う。


 魔王は調子を確かめるように、右手を握って力を篭める。

 するとその部位に魔素が急激に集まっていき、ただでさえ有り得ない程に濃い魔素が、より一層圧縮された。


 その状態で魔法を放てば、それだけでここ一帯が更地になるのではないか。


「……この姿になるのは、久しぶりだ」


 心臓を揺さぶられるような声。


 口も動かさずに、どうやって喋っているのだろう。魔法か、或いは僕らとは全く異なる生物なのか。


 僕はつい後退りそうになる足を必死に抑えて、化け物のような姿に変貌した魔王と向き合った。


「やっと倒したと思って、ぬか喜びさせられたんだけど。性格悪いね、魔王様」


「……この姿だと加減が出来ぬのだ」


「……加減ね。なら今のそれが本気ってことでいいの?まだ変身が残ってるとか言われたら、流石に怒るよ僕」


「……正真正銘、これが余の真の姿。次など無い。次など不要である故に」


「あっそ」


 話しながら、僕は不思議に思う。

 どうして僕は、平然とあの怪物と会話が出来ているのだろうかと。


 正直なところ、怖いなんて言葉では表現しきれないほどに、僕は魔王に怯えている。今、立っていられるのが不思議なくらいだ。


「ねぇ魔王。僕とルネスとアーシェルを見逃すつもりは無い?あの二人さえ見逃してくれるなら、お前が人間滅亡させるのも僕は邪魔しないよ」


「……余が殺す相手は余が決める。貴様の言葉で、何かが変わることはない」


「……まぁ、だよね。そう言うと思ってた」


 前に地下牢でルネスを殺すの止めなかったっけ、と言いかけて、「あぁ、あのときからこの場で殺すって決めてたのか」と気づく。

 恐らくは人間の前で殺した方が面白い、程度の理由だとは思うが、なんとも性格の悪い奴である。


 なんにせよ、だ。

 

「だったら僕は負けられない」


 身体はほとんど動かないし、血が足りなくて頭も回らない。目眩も吐き気も気だるさも、思いつく体調不良は全部揃っている。

 腕を持ち上げるだけでも地獄で、跳び回るなんて以ての外だ。


 でも、それでも――

 

「――僕は絶対に倒れないし、ここは一歩も通さない。守るものがある勇者は、魔王如きじゃ越えられない」

 

 ここに立つ僕が、前世の僕と同じだと思うな。

 今の僕には、死ねない理由があるんだよ。

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