第15話 十五日目 - 3


 魔王と戦う上で、何よりも恐ろしいのは「何をされるか分からない」ことだ。

 一体何処から襲われるのか――どころではない、全く未知の攻撃が繰り返される部分に、その強さはあった。


 しかも魔王は、本来『魔法名』と【導語】の二つで発動させる魔法を、『魔法名』のみの発声で完成させることが出来る。

 その場合の魔法はかなり単純化され、多様性も著しく低下するが、しかし無数の魔法を保持する魔王にとって、そんなデメリットはあって無いようなものだった。


 故に、ユリムが超えねばならない最初の壁は、当然のそこに帰結する。


――予想しろ。何が起こる?魔王は何を狙ってる?


 姿勢、視線、地形、立ち位置。

 あらゆる情報から、魔王の選ぶ魔法を全力で読み取る。


 まず魔王が視線を向けたのは、ユリムの心臓だった。

 その構えは、何かを撃ち出す直前のような。

 

――弱点を狙い定める攻撃だ。細く貫通を狙う魔法。


 狙う先は、駆けるユリムの位置と完全に一致する。

 先読みや偏差撃ちを行う様子は見えない。


――僕の速度に対して偏差無し。つまり発射するのは超高速な何かだ。


 答えは、つまり。


「――光」

「……『光魔法』」


 ユリムは急停止することで、閃光を躱した。

 僅か目の前で輝く高熱の光に、冷や汗を垂らしながらも、ユリムは即座に攻撃に移る。


「こっちの、番だッ」


 ユリムは、己の周囲に無数の瓦礫を出現させた。

 そして自由落下を始めたそれを、魔王に向けて、蹴り飛ばす蹴り飛ばす蹴り飛ばす。


 そのうちの一つに身を隠し、魔王へと接近。

 ユリムは不意打ちを狙い、距離を詰める。


 が、しかし。


「……そこか。『岩石魔法』」

 

「下!?」


 地面から突き上げられた巨大な針状の岩に、否応なく進行方向を変えられる。

 受け流すように身体を回転させるも、鋭い先端に皮膚を裂かれた。


「くそっ……」


 どうにか致命傷は避けているものの、確実に蓄積する傷にユリムは歯噛みする。


 流れ出る血に、迫り来る死を思わせられた。

 背中のすぐ後ろに、薄ら寒いモノを感じる。


――ダメだ。もっと、もっと集中しろ。

 

 頭も身体も全てを総動員して、五感に届くあらゆる情報に神経を尖らせる。

 学んで覚えろ。経験を呑み込んで喰い荒らせ。


 その場で糧を力に変え続けなければ、この戦闘は即座に終わると、ユリムは己に言い聞かせた。


「……目を、凝らせ」


 岩壁を、爆発を、水弾を、雷を、炎を、斬撃を。

 斬って躱して距離を詰める。


 ユリムにとって一番安全なのは、魔王のすぐ側だった。複雑な魔法を使う余裕を与えず、0.1秒毎に判断を要求できるから。


 即ち、超至近距離での高速戦闘。


 逆手に握ったナイフを突き刺す。『硬化魔法』にて鋼のように変わった腕で防がれた。

 目の前の魔王の手から『火炎魔法』が飛んでくる。斬撃で掻き散らした。

 生成したナイフの柄を蹴り飛ばす。『土魔法』で地面をせり上げ止められた。

 

――見逃すな。何もかもを見切れ。


 現時点での限界を、一秒ごとに超え続ける。


「……が、ぁぁぁぁ!!!!」


 




 その瞳孔が紅色に染まりつつあることに、ユリムは気づかなかった。

 それはユーリシュという個体の、成長の兆しである。





☆彡 ☆彡 ☆彡



 


 何が起こっているのか全く分からない、あまりにも疾すぎる戦闘を、アーシェルは横目に見つつ。

 何となく今なら行けるかもしれない、という何の根拠もない勘を頼りに、ルネスの元へと近づいていた。


 とっとっと、と小気味よい足音を鳴らしながら駆けていく。

 そしてルネスの隣に辿り着くと、その肩に触れて声を掛けた。


「ルネス、大丈夫ですか?」


「……え?……あ、アーシェル。私は、大丈夫よ」


 心ここに在らず、といった様子のルネスを見て、アーシェルは少し不安に思う。

 何かあったのか、或いは先の恐怖で心を傷を負わされてしまったのか、と。


「……ルネス?」


「本当に大丈夫よ。……少し、考え事をしていただけだから」


「そう、ですか。それなら良いのですが――って良くは無いです。考え事なんて後でしてください。早く移動しましょう」


「そ、そうよね。ごめんなさい」


 アーシェルはルネスの手を引き、立ち上がらせた。

 逃げる宛など何処にもないが、少なくともこの場からは離れねばなるまいと。


 辺りを見回すと、既に逃げ出している者がほとんどだ。

 人間も魔族も、最初と比べると遥かに数を減らしている。

 残っているのは腰を抜かして動けない者と、何か目的を持ってこの場に立つ者だけだった。


――チャリン


 ルネスが立ち上がった途端、何かの金属音が鳴る。

 何の音かと確認すると、そこに落ちていたのは一つの鍵。


 恐らくはルネスの手錠の鍵だとアーシェルは推測するが、しかし何故こんなところに。


「ユーリシュが複製した、とかでしょうか」


「……そ、そういえばアイツ、私の膝の上に何か乗せていったような気がするわ。……ぼーっとしてて気づかなかったけど」


「こんな危機的状況で、何故そんなほわほわ出来るんですか?……全く、手枷それ外しますよ」


「あ、はは……」


 アーシェルにジト目を向けられ、ルネスはただ苦笑いを浮かべていた。

 まさか、ユリムと再会出来たことに驚いて、なんて口にする訳にもいかない。


「ついでに『魔封の首飾り』も外しますね。……因みに、ルネスの魔法って何でしたっけ」


「『支援魔法』よ」


「え!?な、ならユーリシュに……っ」


「分かってるわ。でもあの速度で動き回られたら、私の魔法は当てれないの。……それに効果時間に限界があるから、タイミングも考えないと」


 ルネスの持つ『支援魔法』は、同じ相手に対して繰り返し発動させることが出来ず、最低でも効果時間以上のクールタイムが必要となる。


 加えて『支援魔法』の効果が消える瞬間、思い通りの動作が行えずに恐ろしい隙を生む可能性があることを、ルネスは知っていた。

 特にあの速度で戦うユーリシュにとって、それがどれほどの致命的な隙になるかなど、考えるまでもない。


「なるほど。であれば、取り敢えず『支援魔法』が届くギリギリまで離れましょう。もしルネスが巻き込まれて死んでしまったら、ユーリシュも浮かばれません」


「……そうね」


 そうして二人は、一つの廃屋の中に身を隠す。

 屋根も崩れて建物と呼ぶには足りないが、しかし多少の危険からは守ってくれる、とアーシェルは判断した。





☆彡 ☆彡 ☆彡






 見えた。

 その瞬間、今まで見えなかった何かが、ユリムの紅色の目に映った。


――なんだ、これ。


 やや粘性のある白いモヤが、宙に浮いたまま、渦巻くようにその場で流れているのだ。

 気味の悪いものでは無く、むしろ神秘的な煌めきすらをユリムは感じ取る。


 ユリムの脳裏に浮かぶのは、魔王による新しい魔法だろうかという思考。まだ知らぬ、危険な一撃が飛んでくるのではと警戒した。

 

 焦点は魔王に合わせながらも、ユリムはそのモヤを視界の隅に捉え続ける。

 一体何が起きたのかと、僅かに困惑していると――


「!?」


――直後、そのモヤは氷の刃となって、ユリムに襲いかかった。


 下げた頭の後頭部を掠める冷気を感じながら、ユリムは目を見開く。


「……貴様、今……」


 魔王が何かを口にしているが、ユリムはそれどころではない。


 白いモヤの正体を探るのに必死だった。

 もしかしたら、もしかすると、とユリムの思考はけたたまし騒ぎ立てる。


 正面を見ると、再び白いモヤが浮かんでいることに気づく。今度は三つだ。

 ユリムは自らの予想に意識を取られ過ぎないようにしつつも、その三つのモヤに注意を払う。


「――ッ」


 今度は三つの回転する石弾へと、白いモヤは姿を変えた。


 間違いない、とユリムは息を呑む。


――このモヤは魔法の素だ。


 複雑な魔法を唱えるとき、魔法名と導語を口にする前に「長い溜め」が必要になることを、ユリムは知っていた。

 今までその理由は明らかでは無かったが、この白いモヤを集めている、と考えれば納得が行く。


 いや、それよりも。

 今、重要なのはそこじゃない。

 気にすべきは、


――これで僕は、魔王の攻撃を先読みできる。


 ほんの僅かに、ユリムの勝ち筋が生まれた。


「う、らぁぁぁぁあ!!!」


 再び、詰める。


 魔法によって何が起こるかは分からずとも、何処で起こるかは分かるようになった。

 それだけでも、遥かに躱し易い。

 

 一息に、刃を十三跳ねさせる。

 回避の動作に余裕が出来て、攻撃までのラグが大きく減った。


「……貴様、魔素が見えるようになったのか?」


「うる、っさい!!!」


 魔素。このモヤは魔素と呼ぶのか。

 そんな学びを得ながらも、ユリムはひたすらにナイフを振るう。


 弾かれ躱され受け流されつつも、魔王の全方位から攻め続けた。魔素を目視できるようになった今こそ、最大のチャンスであるとユリムは判断したのだ。


 しかし。


「ぐ、が……っ」


 魔王はまだ余力を残していた。

 魔素による先読みしても尚、追いつけない差が二人にはあった。


 身体を反らせて躱し、片手を軸に岩を蹴り砕き、腕の力で跳ねて体勢を整えながらナイフを投擲。

 背後に魔素の気配を感じてしゃがむと、頭上を刃が飛び抜けた。


 合間合間にどうにか攻撃を挟む、が、


「くっ、そ……」

 

 ユリムの攻撃は、一度として当たらない。

 無数に繰り出される攻防の中で、疾く強く正確にと、ユリムは明らかに強くなっている。


 だが、魔王には未だに及ばなかった。

 

 血塗れのユリムに対して、魔王の姿には汚れ一つ存在しない。荒い呼吸を洩らすのも、ユリムだけである。


――遠い……っ。

 

 近づけば近づくほどに、ユリムはその力の差を実感させられていた。

 

 体力が、集中力が、覇気が。

 ユリムの全てが枯れ果ていく。


 徐々に反応が鈍り、精密さが衰え、被弾も増える。


――このままだと駄目だ……っ。


 焦りと動揺が生まれた。


「くそっ、クソクソ………ッ!!」


 落ち着けと、ユリムは己に叫びつける。

 しかし絶望的な危機に対して、否応なく心拍数が上がってしまう。


――なんとか、しないと。


 そしてユリムは起死回生の一手を探すべく、頭を回そうとして、


「……あ」


 否、頭を回してしまった。


 ユリムは目の前に全神経を集中させることで、どうにか魔王と張り合っていた。死の線を越えるか越えないか、というギリギリで生き延びていた。


 そんな状況で、別のことに頭を用いる余裕が、何処にあったというのか。



――――。



 それは、フェイントだった。

 魔素を用いた、虚の攻撃。


 左後ろに集まる、魔素の気配――ユリムはそれを避けようと、無茶な回避に身を投じたのだ。

 偽の一撃だと気づいたのは、既にバランスを崩した後だった。


 続けて地面の下に、魔素が集まる気配。

 しかし体勢を崩したユリムでは避けれない。

 攻撃が来ると分かっているのに、何も出来なかった。


 世界がゆっくりと進んで見える。

 走馬灯のような光景を眺めて、


――これは、死んだ。


 死を幻視した。


 瞬間、世界が元の速さに戻って。同時に。


 腹を、貫かれた。

 激痛。衝撃。

 血を吐く。視界が赤く染まる。


 これはもう動けないと、止まった頭が理解した。


「……ぁ」


 顔のすぐ前に、魔王の手があった。

 その手には濃密な魔素。

 追撃だ、とユリムは悟る。

 

「……死ね、ユーリシュ。存外に楽しめた」


 ぼうっとした頭に、魔王の声が届く。

 何を言っているのか、分からなかった。

 そして、直後。



 爆音。



 ユリムの視界の左側が消え、身体は大きく吹き飛んだ。

 血を撒き散らしながら、遠く建物の壁へと。

 その肉体を、深くめり込ませた。


 ずっと響いていた二人の戦闘の音が止み、周囲には静寂が満ちる。

 耳鳴りがする程の静けさに、ここに居る誰もが呼吸を止めた。




☆彡 ☆彡 ☆彡




 

「……ぁ、が……」


 微かに意識が残っていた。

 閉じかけた瞼に沿うようにして、僅かに空が見える。

 腹部から溢れ出る血を抑える力もない。

 

――負け、た?


 記憶が朧気だが、それでも身体に走る激痛が、僕は致命的な一撃を貰い、そして死にかけているのだということを伝えてきた。


 やけに白みを帯びた視界の中で、僕は自分の状態を整理していく。

 

 まず左目は完全に見えない。眼球が潰れたのか、それとも瞼が上がらないだけなのかは定かではないか、とにかく視界の左側は完全に失われていた。

 

 次に右の脇腹に大穴が空いている。下から襲いかかった、何らかの魔法に貫かれた結果だろう。

 明らかにこれが致命傷。血が止まらない。


 その他全身に数多の裂傷打撲と骨折多数。


 死ぬには十分過ぎる怪我だった。


「………ぁ、ぅ」


 呼吸が苦しい。

 指すら動かない。

 頭がぼうっとする。


 力を込めれば込めるほどに、あぁ僕は本当に死ぬのだな、と強く理解させられた。


「…………」

 

 頑張ったよね、僕は。

 勝てる訳の無い相手に歯向かって、こんなになるまで戦った。命を懸けて、足掻いたんだ。


 血だらけになっても、骨を折られても、耐えて耐えて戦った。痛いのも我慢した。苦しいのも我慢した。

 これ以上何をしろっていうんだ。

 もう諦めたって良いじゃないか。


 まだ戦って何になる?

 この状態から勝てるのか?


 無理に決まってるだろ。現実を見ろ。

 キツい。シンドい。だから、このまま死のう。


「…………?」


 ふと、己の思考に既視感を覚えた。

 なんというか、全く同じことを考えたことがあるような。

 

 ぼんやりと思い出そうとして、僕はああと気づく。

 前世で死んだ瞬間だ、と。


『……何故、本気で戦わぬ』


 それは勇者ユリムが魔王に言われたセリフだ。

 そのときの僕は、「本気だよ」と返した気がするが、はてどうだったか。 

 事実、僕は本気で戦っていたはずだけれど、どうしてそんなことを言われたのだろう。


『……貴様、何故ここに来た』


 何故?そりゃお前を倒すためだ。勇者が魔王城を訪れる理由なんて、他に何がある。


『……では何の為に、余を倒そうとする』


――――。

 

 言われて、みれば。

 どうして僕は、魔王を倒そうとしているんだ。

 人間を救うため?いやいや、あんな連中に興味はない。


 ならどうして、僕はここに来た。

 誰のために、何のために命を懸けているのだろう。


 あれ?頑張る意味、あるのか?


「……頑張る…意味」


 そうだ、思い出した。

 前世の僕は、そこで折れた。

 自分が空っぽだと気づいて、足に力が入らなくなったんだ。



 ならば。

 今の僕は、


「…………何の、ために……?」


 戦ってるんだっけ。



 








「――ユリム!!!お願い、死なないでユリム!!!!」









 遠くから聞こえた、悲痛に染まるその声に。

 霞かがった思考が、一瞬にして晴れた。


 そうだ、ルネス。

 ルネスだ。

 僕はルネスを助けるために、戦っているんだ。


 ルネスを助けるために足掻いている。

 ルネスを助けるために命を削っている。


――僕が死んだら、ルネスはどうなる?


 魔王に殺される。


――じゃあ僕は、諦めていいのか?


 ダメに決まってんだろ。


「……なら」


 限界を超えろ。

 心を燃やせ。

 僕はまだ死んでいない。

 心だって折れていない。


 行ける。まだ行ける。

 もっと、もっともっともっともっと先へ。


「……ぐっ、が……」


 僕は必死に、手を動かす。

 その目的は、ホルスターで砕け散っているだろう回復薬。


 アーシェルに貰った回復薬が、丸々無事ならそれこそ最高だが、先までの激しい戦闘を耐え切れるとは思えない。


 だから僕は、その付近の布で湿っている場所が無いかと探った。

 もしも装備の何処かに、少しでも回復薬が染み込んでいれば、それを絞って怪我をマシに出来ると考えたのだ。


「……これ、か?」

 

 血と混じって分かりづらい。

 しかし血とは明らかに違う濡れ方をしている部分が、服の裾にあった。


 強引に捻り、右脇腹の大穴に触れさせる。

 

「……はぁっ、はぁっ……………」


 ほんの少しだけ暖かな光が灯り、傷が癒えていく。

 完治とは程遠いが、しかしフラフラと立ち上がれるくらいには回復した。


「アーシェルの、お陰だね……」


 まさか半ば強引に渡された回復薬に、命を救われるとは思わない。

 ともかく首の皮一枚で希望は繋がった。


 僕は遠くから、此方に向かって歩いてくる魔王の姿を見る。

 生死確認か、或いは確実にトドメを刺しに来たのか。


 何にせよ、チャンスは一度きり。

 本気の戦闘はもう無理だ。


「……これしか、無い」


 僕は一つの魔法を発動させた。

 最後の可能性をかけた、起死回生の一撃である。


 上手く行けば勝ち。外せば負け。


 僕は動けないフリをしながら、魔王が僕の元へと着くのを待った。





☆彡 ☆彡 ☆彡





 足音が、近づいてくる。

 魔王の足音だ。


 その歩みに淀みは無く、ユリムが何をしようとも確実に対処できる、という自信が見えた。


 ユリムは呼吸を止めて、目を閉じたまま耳を澄ませる。

 魔王との距離を、聴覚だけを頼りに測るのだ。


――まだ、遠い。


 ユリムが狙うのは不意打ちの一閃。

 死んだと思って近づいてきたところで、容赦無く魔王の首を切り落とすつもりだった。


 正々堂々とは程遠いが、手段を選ぶつもりなどユリムにはなく、そもそもそんな余裕などあるはずもない。

 勝てれば――そしてルネスを救えればそれで良かった。


 ユリムは倒れるのは、穴だらけではありつつもどうにか四方と空を覆った、崩れ掛けの建造物の中。

 建物と区別して良いのかも怪しいほどに軋んではいるが、近づかねばユリムの姿を視認出来ない程度には、壁としての機能を持っていた。


「……。」


 魔王の気配。

 壁を挟んで、ほんの少し離れた場所からだ。


 ユリムは呼吸を止め続ける。

 生きていることがバレないように、心臓の鼓動すらも必死に抑えていた。


 魔王が探査系の魔法を用いたらそれだけで気づかれる、穴だらけの作戦。

 しかしユリムが勝ち筋を手繰り寄せるには、それに賭けるしか無かった。


――もっと、こっちに来い。


 待つ。

 慌てる心を落ち着かせ、静かにその足音に耐える。


 その崩れた壁の隙間から、魔王が中を覗き込んだ瞬間が、ユリムが飛びかかるタイミングだ。


 息はしない。

 ただ無音に。

 

――もう少し。もう少しだ。


 静かに、全身に力を篭め始めた。

 一瞬で跳ね起き、斬り掛かるための準備。


 身体はほとんど言うことを聞かないが、それでも、あと一回だけ頑張ってくれと、強く己に言い聞かせた。


 そして。

 魔王が、顔を覗かせた瞬間。


――今だ。


 一直線に、駆けた。


 ユリムの右目は大きく見開かれ、輝き、紅色の軌跡を宙に残す。それはナイフの光沢と共に、紅と銀の二筋の線を流麗に描いた。


 過去最速。

 ボロボロの身体でも尚、ユリムは更なる限界を超えた。


――届け、届け、届け!!!


 軋む身体に鞭を打ち、ユリムは魔王の首に迫る。


 必死に、愚直に、ただ真っ直ぐに、ユリムが目指した先に見たものは、


「――――ッ」


 呆れた表情を浮かべる、魔王の姿だった。


 その手には『防壁魔法』で作られた、透明な盾。

 魔王はユリムの考えを見通し、既に対策を立てていたのだ。


――最初から、バレてる……


 ユリムのナイフの進む先には、切り裂けぬ壁がそびえ立つ。

 魔王の脳裏には、ユリムのナイフを弾き、そのままユリムを殺すまでの明確なビジョンが完成していた。


 だが。


――……ってのは、僕だって分かってんだよ!!




 魔王の身体が、ほんの一瞬固まった。



 

 それは魔王にとっては完全に想定外の出来事であり、そしてユリムにとっては理想通りの出来事だった。


 神経毒。


 ユリムは『創造魔法』を用いて、この室内を全力で毒で満たしていた。

 部屋に空いた穴に顔を近づければ、そこから溢れる空気を吸うだけで動けなくなる、強烈な麻痺を引き起こす猛毒である。


 こと魔王に対して本気で毒が通じるとはユリムも思わないが、しかしほんの一瞬、動きを封じる程度なら可能だと判断したのだ。


 ほんの一瞬――それは、ユリムと魔王の戦いにおいてはあまりにも長すぎる。


「――死ね、魔王」


 そう端的に、告げながら。

 ユリムは魔王の盾を躱して、腕をしならせ。


 そして。


 魔王の首を、刎ねた。

 間違いなくミスなく一切の語弊なく、刎ね飛ばしたのだった。


「……勝っ、た?」


 ユリムは手のひらに残った確かな感触を握り締める。

 確実に切り裂いたと、感覚が理解した。


 倒した。

 ついに倒した。

 喜びが追いつかないのか、ユリムは呆然と魔王の死体を見つめる。


 転がる首と、ピクリとも動かない身体。

 地面を染める血も本物で、死んだフリとは到底思えぬ、明らかな決着であると言えた。

 

「ユリム!ユリム!!やったわねユリム!!」


「あの、ルネス。先程からユリムとは一体……?あれはユーリシュという生き物なのですが」


 ユリムの耳に二人の少女の声が届く。

 ルネスの歓喜に満ちた叫びと、隠しきれない安堵を見せるアーシェルの声。

 呆然と立ち尽くすユリムに向かって、二人はまさに駆け寄っている最中であった。


 ユリムは、そんな二人に笑顔を返す――





「……いや。本当に、勝ったのか?」


――否、嫌な予感を残していた。


 一度死んだ生物が、生き返ることはない。

 それは『全能魔法』を持つ魔王でも同じこと。


 なのに。


「なんで、最期に笑ったんだ……?」


 刃が首に触れるその瞬間の、魔王の不気味な笑みが、ユリムの脳裏にこべりついていた。


 ユリムは魔王の笑みを見たことがなかった。

 魔王が笑った、という話を聞いたこともなかった。


 魔王とは、無表情で無感情に、ただひたすらに残虐な生物である。笑う姿など想像したこともなく、底無しの気味悪さを感じた。


「……意味が分からない。本当に、終わったのか?」


 勝ったはずなのに、と。

 ユリムには謎の不安が伸し掛る。


「一体、どんな意図で……――!?」


 そのとき。


 魔王の死体に、魔素が集まっていくのをユリムは見た。

 それは如何なる魔法でも消費しきれぬだろうと思うくらいには、大量の魔素。


 嫌な予感は現実のものとして、ユリムの前に姿を見せた。


「――こっちに来るな!!まだ離れてて!!」


 咄嗟にユリムは、二人に警告を出す。

 ここはまだ安全じゃない、魔王はまだ生きていると大声で伝えた。


 そしてルネスとアーシェルが立ち止まり、ユリムに対して驚きの表情を見せた、直後。






 魔王の死体は、強烈な風と土煙に包まれた。

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