ワタシのノゾミ


 私は泣いた。鏡にすがりついて泣いて泣いて…泣く気力が無くなるまで泣き続けた。


「……お前、ひなたって名前なのか」


 ずっと私の様子を伺っていた彼が私に恐る恐る声を掛けてきた。そうだ、この人も居たのだったと我に返ったけど、今更泣き腫らした顔をごまかしても遅い。


「…そう。鏡の向こうにいたもうひとりの私が“真夜”ちゃん。小さな頃から友達だったの」


 冷たい無機質な鏡の向こうにいる大切な友達はずだったのに、どうしてこうなったのだろうか。

 突っ立ったままの彼は私の顔を見て、複雑そうな表情を浮かべていた。だけど、当初の頭がおかしい人間を見るような眼差しはもうない。


「…見ちまったから、お前の言い分は信じる。……だけど、話が見えない。お前が望んだことだと向こうの女は言っていたよな」


 それを指摘されると耳が痛い。

 私はついこの間までのわがまま三昧な自分を思い出して恥じた。

 なぜこうなったのか。真夜ちゃんのお金に不自由しない生活を羨んだから。私は物欲に飢えていた。あれも欲しいこれも欲しいとワガママを言って、親を困らせて。

 なのにここに来たらやっぱり戻りたいと駄々をこねて…根本の部分が同じじゃないかとついつい自嘲してしまう。


 当たり前だと思っていたことはすべて当たり前じゃない。この状況に追い込まれなくては私は気づけなかったのだ。



 私のたどたどしい状況説明を聞いていた彼の顔はドンドンしかめっ面に変わっていった。やっぱり、第三者から見ても私はわがままだったのだろうか。


「……限られた道ではあるけど、親は可能性を示してくれていたのに、わがままを言ったのはお前だ。本当に私大に行きたいなら、奨学金でもバイトでも頑張れるはずなのにそれをやらないのは中途半端だからだ」


 それはお母さんにも言われた。

 だけど私は「親の癖に」と反発してぶつかって、いつも話は平行線のままだった。


「そもそも国立じゃ駄目なのか? 勉強するには変わりないだろう」

「だって…」


 言い訳したくなったが、それも私のわがままなんだろう。


「親なら何してもらっても当然と思うのは間違ってる。バイトしたことあるか? 金を稼ぐことの大変さをお前は知らないだろう」


 知らないよ、そんな事言われても。働いたことないもの。

 私は膝の上に載せた拳を握りしめて黙り込む。


「世の中なんて不公平で成り立っている。なんでもかんでも手に入るのは上位の一握りの人間のみだ。その下にいるその他大勢は、どこかで妥協して諦めているんだよ。それでも自分の意志を貫きたいなら、自分の身を切る覚悟じゃないと」


 うじうじしても何も始まらねぇよ、と彼は言い切った。

 今の私にはぐさっとくる説教である。はじめて会話をしたはずの人間にこんなにも心に来る説教をされるとは思わなかった。


 凹んだ私を見て何を思ったのか、部屋のドアを開けて出ようとした彼はピタリと立ち止まり、しばし沈黙した後、口を開いた。


「…向こうに戻る云々は置いておいて、お前はもうちょっとよく考えたほうがいい」


 それは優しさなのか、説教なのか。

 がちゃり、と閉ざされた扉の後、玄関のドアの開閉音がしたと思ったら襲ってくるひとりの空間。

 静かすぎて耳が痛くなりそうだった。



 ここに来て、私は家でいつもひとりで食事をしていた。

 たまに生存確認と生活費を渡すために真夜ちゃんの両親が帰って来るが、すぐにいなくなる。私の両親と同じ顔なのに全くの赤の他人のような人たちはいない。

 一人の家だ。

 真夜ちゃんはいつもこんな冷たい家でひとり過ごしていたのか。

 たくさんの物に囲まれ、不自由ないお金をもらって、好きなものを食べられる。門限を破っても叱られないし、男遊びしてもなんにも言われない。

 ……それが羨ましいと思っていたけど、実際には、ここの親は娘に関心がないんだ。


 チン、と電子レンジの電子音が温め終了をお知らせする。

 どこかに食べに行く気力もなく、出前を取るほどでもなく、夕飯に冷凍食品のチャーハンを温めて食べることにした。何が入っているのかよくわからないチャーハン。


「…冷たい」


 しっかり温まってなかったらしいチャーハンは内部がひんやりと冷たかった。

 …味気ない。

 

「……お父さんが作ってくれるダイナミックチャーハンが食べたいなぁ…」


 毎週日曜日のお昼はお父さんが昼食を作ってくれるんだけど、具材が大きくて、ちゃんとパラパラになっていないチャーハン。いつもの味でそれが当然だった。

 私にとってはお父さんの作ったそれがチャーハンで……贅沢じゃないけど、家族三人でご飯を食べる時間は幸せな時間だったんだなぁ。


 今頃は私のふりをした真夜ちゃんと一緒に食卓を囲んでいるのだろうか……両親は、私と同じ顔をしていれば、私じゃなくても平気なのだろうか。

 つん、と鼻が痺れて、目頭が熱くなってきた。


「うっ…」


 お父さん、お母さん会いたいよ。

 広すぎる家に一人ぼっちは寂しいよ。

 お母さんのおかえりって言葉がほしいなぁ。今ならお父さんのうざい絡みにもまともに相手してあげるから……

 チャーハンの上にぼたりと雫が落ちる。冷蔵庫の音がやけに大きく聞こえる殺風景な食卓で、私は鼻をすすりながらひとりで夕飯を食べていた。



■□■



 ……あまり気がすすまないけど、翌日も私は学校に行った。

 案の定真夜ちゃんの友人らにはハブられた。合コンに来いと言われていたが、最後まで断り続けたことで反感を買われたようだ。

 私はボッチになってしまった。


 ……ずっと、ボッチは情けないことだって考えていた。誰かと群れていないと不安で仕方がなかったが、今回に限ってはボッチになれて良かったかもと安心している。

 真夜ちゃんの友人と私は根本的に違いすぎてどう接したらいいかわからなかったので、ひとりになった今、心穏やかに過ごせている気がする。


 いつもは誰かと一緒にトイレに行ったり、売店に行ったりしていたけど、今日からはひとり。お昼ごはんもひとりになる。


 でもいいの。

 今日は料理の練習も兼ねて自分でお弁当を作った。しかし見た目が悪い失敗作なので、人目のつかない場所でぱぱっと食べてしまおうと考えていたから。

 お弁当とスマホを持って席を立った私は、こちらをさり気なく観察している真夜ちゃんフレンドの視線を無視して廊下に出ようとした。


「あ、いたいた」

「…あなたは」


 昨晩ぶりの彼が急にぬっと目の前に現れたので、私は驚いて目を丸くしていた。

 そうだ、彼は同じ高校の生徒だった。


「一緒に飯食おうぜ。俺のダチも一緒に、だけどな」

「え?」


 そう言って彼は私の手を引いて移動しはじめた。背後から視線が突き刺さってくるが、振り返る暇もない。昨日の今日で何なのだこの人は。あの事で突き放されたかと思っていたのに。

 お父さん以外の男の人に手を繋がれたのは……中学のときのフォークダンス以来かもしれない。私はその手を握り返せばいいのかどうすればいいのかわからず、戸惑っていた。


「あなたの友達も…って何で私まで?」


 私の疑問に答えることなくこうしてグイグイと引っ張られた先は中庭である。そこには数人の男女が昼食をとっていた。


「あれー? 望、なにその1年」

「迷子になってたから連れてきた」

「迷子って」


 何だその紹介の仕方。

 迷子じゃない。確かに鏡の世界に迷い込んだけど、私は迷子じゃないぞ。高校生にもなって迷子は無いだろう。

 彼の名前を聞きそびれていたが、望っていうのか。そこにいたのは堂々と校則違反をしている彼の友人らしく、派手な友人たちばかりだったが、急な割り込みにも嫌な顔ひとつせずに迎えてくれた。

 そんな中に素朴な私は浮いていた。

 なんだこの罰ゲーム。初対面の人の前ではじめて作った弁当をお披露目しなきゃならないのか…


「料理下手くそだな」


 人のお弁当箱の中身を覗き込んでおいて、なんて酷いことを言うんだ。

 望って人はズケズケ物を言い過ぎだと思う。私も下手だなぁと自分で思ったけど、口に出さなくても良くない?


「だって、いつもはお母さんに作ってもらうから…」


 自立の一環というか……おかげさまでお母さんの偉大さに気づけましたとも。

 私はぶちぶち言い訳しながら、お弁当にお箸をつけようとしたのだが、横から伸びてきた手によって、焦げた卵焼きが奪い去られていった。


「頑張ったじゃん、見た目はともかくうまいよ」


 …褒めたつもりなのだろうが、今…私の貴重な食料が強奪されてしまったことは見逃せなかった。


「私の卵焼き!」


 ちょっと! 私の貴重なタンパク源! 何許可も取らずに食べてるの!?

 ムカついたので、望が持っていたカレーパンを彼の手ごと引き寄せて大口でかぶりついてやった。


「はぁ!? おまっ」


 カレーパンうまい。

 望をガン見しながらもぐもぐと咀嚼してやる。彼は半分なくなったカレーパンと私を見比べてワナワナしていた。

 人のおかずを奪うからこうなるのだぞ。よく覚えておけ。


「仲いいねー」

「食べ物の恨みは怖いなぁ」


 初対面な上に、私とはタイプの違う先輩たちだったが、皆気のいい人たちばかりだった。

 …望は優しいのか突き放すのかよくわからない人だし、卵焼き強奪犯だけど……その中身は困っている人を見逃せない優しい人だ。彼の周りには同じような人が寄ってきているのかもしれないな。



 昼休みいっぱい、望や先輩たちと過ごして教室に戻ると、席について5時間目の授業の準備をはじめた。

 いくら真夜ちゃんと入れ替わっていると言っても、勉強はちゃんとしなきゃ。真夜ちゃんとどうやって話し合うか、戻る方法を見つけるかはこれから考えるとして、授業は真面目に受けよう。

 望のお陰で少しばかり前向きになれた気がした私は、自分にできることから取り組んでいこうと意気込んでいた。


「あんなイケメンと仲良くなったなら合コンなんていらないよねー」


 だけど、私に聞こえるように悪口を言いだした彼女たちの声によって、心臓がドッと嫌な音を立てた。


「おとなしそうな顔をしてよくやるよね」

「あたし知ってるー。昨日、さんざん貢がせた男が正門前であいつ待っていたのー」

「股が緩いんじゃない?」


 キャハハハと笑いながら下品な言葉を投げかけられた私は固まっていた。

 いや、違うし、貢がせたの私じゃないし。お股が緩いとか、彼氏イナイ歴年齢の私によく言えたもんだな……何よりも下品だ。女とか男とかそういうことは置いておいて、彼女らは下品すぎる。どんな教育を受けているのか。


 ──ガッ

 机を蹴りつけられ、私はびくりと肩を揺らした。


「おい、聞いてんのかよ、お前のことだよ。このクソビッチ」


 真夜ちゃんフレンドの中心的存在の女子生徒に耳元で囁かれた私は屈辱を感じていた。

 ……クソビッチだぁ…?

 彼氏がいるくせに合コン行くと表明していたあんたにだけは言われたくない…!


 私は勢いよくがたんと立ち上がって椅子を引き倒すと、目の前の女の頬を張ってやった。ばしぃっといい音を立てて張り飛ばすと、相手は目を丸くして固まっていたが、もう知らん。

 これまでは真夜ちゃんに遠慮して彼女たちに合わせてきたが、遠慮モードは今日限りで閉店だ。


「どっちがビッチだ! うらやましいなら自分で声かけなよクソビッチ!」


 ここは私の居場所じゃない。彼女たちは私の友達じゃない。

 私は好きに自己主張させてもらうんだ!


「なにすんだよっ」


 ビッシィとお返しに頬を張られた。なので私ももう一度叩いてない方の頬を叩き返してやった。


「お前、生意気なんだよ!」

「あんたが言うなぁ!」


 私と彼女は取っ組み合いの喧嘩を始めた。ボコボコ殴り合い叩き合い、周りの机を引き倒して、クラスメイトにドン引きされる中で争った。

 こんな風に喧嘩したのっていつぶりだっけ。…幼稚園ぶりかもしれない。キーキー喚きながら叩き合いをしていたら教師に止められ、私と彼女は生徒指導室行きとなった。

 教師にこってり絞られ、チクチク言われた。叩かれた頬が真っ赤に腫れ上がって痛かったけど、心はスッキリしていた。


 真夜ちゃんフレンドとはもう終わりだろう。私ももう心残りはない。

 生徒指導室を出るとひとりでさっさと教室に戻ろうとしたのだけど、彼女に「真夜」と呼び止められた。

 私は真夜ちゃんじゃないけど、仕方無しに振り返ると、彼女は私と同じく赤く腫らした頬を緩めてこちらを見ていた。


「いつも暗くて言いなりで合わせてばかりだったのに、あんたはっきり言えるんじゃん」

「…我慢して合わせていただけだよ」


 不思議だ。

 元の世界でも私は我慢して友達に合わせてきた。いつだって顔色を伺い、嫌われぬようにしていたのに、大きな変化である。


「今のあんたのほうがいいと思うよ。少なくともあたしはね」

「それはどうも」


 なんかよくわからないが、彼女から認められたらしい。これが拳の対話というものなのだろうか。


「でさ、先輩紹介してよ」

「自分で頑張れ」


 あ、そっちね。

 その手には乗らないよ。

 お断りすると、彼女を置き去りにしてその場を離れる。


「なんだよー」

「彼氏がいるくせに馬鹿なこと言わないでよ」


 望は一応恩人のような存在だ。変な女は紹介できない。


 朝から昼にかけて無視していたくせに、彼女たちは再び私をグループに入れた。

 まだ彼女たちのことは苦手だけど、距離が縮まった気がするのは私だけじゃないと思う。



 私は親の前ではわがまま三昧のくせに、友達の前ではいつもいい子ぶっていた。みんなと一緒じゃなきゃ不安で怖かった。

 ある程度、空気を読むことは大事だとは今でも思う。


 だけど全部がそれじゃだめなのだ。

 自分という軸を持つことが大事なんだってことが学べた気がした。


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