第6話 3月28日(火)

 メールソフトの受信箱を手前に出しながら、右下の時計に目をやるとそろそろ19時。「お先〜」と香織がお気楽そうにオフィスを出たのが17時半。哲朗と浪川さんに「まだ、帰らないの?」と声をかけ、二人を引き連れて帰ろうとしたのを途中で止めたけど、これで安藤さんから返事が帰って来なければ、この90分はムダになるかもしれない。

 哲朗と浪川さんは、コビトカバチャンネルの新しい動画編集に勤しみ、次の動画をどう構成するか、どう発信していくかを話し合っている。哲朗はラジオの時報に顔を上げ、壁際の時計を見た。

「小腹空くよね? なんか食べる?」

 彼は財布から100円玉を取り出し、目ぼしいものはほぼ全滅したオフィスグリコの前へ行く。浪川さんは彼の隣で中を覗き込むが、やっぱり目ぼしいものはないらしい。「やっぱりいいや」と言わんばかりに首を振ると、二人揃って今まで作業していた机に戻っていく。

 二人の動きをぼんやり眺め、19時台の番組が始まったラジオに耳を傾けていると、視界の隅で、未読のマークがついたメールが届いていることに気がついた。安藤さんから届いた、件名に「Re」がついた回答メール。

 哲朗の視線がこちらに向く。彼も、今のメールを見たようだ。ゆっくり頷くと、彼は大きく息をついた。

「哲朗くん、浪川さん。本当に、お疲れ様でした」

 席から立ち上がり、二人に向けて頭を下げる。

「さ、今日はもう上がろう」

 僕の号令に、二人は今までの作業を止めて、帰り支度をし始めた。動画をアップロードしている端末には「そのままでOK」を出して、付けっぱなしのラジオと空気清浄機を落とし、浪川さんにはタイムカードを押してもらった。

 僕も僕で荷物を鞄に詰め、久々に社内用のサンダルから、外履き用の靴に履き替える。戸締りを確認して、二人に「忘れ物、大丈夫?」と念を押す。二人がそれに頷いたから、鞄を持って、オフィスの外へ出た。照明を落として、セキュリティをONにして、鍵をかける。

 前を歩いていた二人がエレベーターを呼んで待ってくれていた。哲朗がドアの前に立ち、ボタンを操作してくれる。

「で、二人はこの後どうするの?」

「僕らはもうちょっと、打ち合わせしていきます」

「そう? 晩飯なら奢るけど」

「いや、武藤さんは帰れる時に帰った方がいいですよ」

 哲朗に反論しようと思ったのに、ビルの外に出たら、二人に「お疲れ様でした」と頭を下げられたら、一人で帰路につく他ない。哲朗と浪川さんは、最近見せなかった「ふたりの世界」な雰囲気を漂わせ、僕を置いてさっさと阪急の駅の方へ歩いて行った。

「オレもそっちに帰るんだけどなぁ......」

 僕の呟きは、幸せいっぱいに歩く二人の背中には届かない。あっという間に彼らは商店街の方へ曲がる。僕は二人の後を追いかけるようにトボトボと足を動かす。

 久々に忙しかった年度末。身も心も精一杯でやり切った達成感を味わいたかったけど、今日は寄り道せずに帰るとしよう。

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