第5話 3月4日(土)

 土曜の朝10時過ぎ。久々に1日オフの予定が、今日は少々重い足取りで自分のオフィスにたどり着く。扉の向こうから、FM802のパーソナリティが番組に届いたお便りを読み上げているのが聞こえてくる。

「おはようございます」

 オフィスに入ると、土曜日出勤の哲朗が挨拶してくれる。普段は香織が座っている席から、今日は浪川さんが顔を覗かせた。彼女も「おはようございます」と声をかけてくれた。二人とも不思議そうな顔をしていたが、僕が自分の席に荷物を置き、端末を立ち上げながらコートを脱ぎ始めると、浪川さんは目の前のモニターに視線を移し、自分の作業に戻っていった。

 哲朗は自分の席を立ち、僕にコーヒーを入れてくれた。

「今日、お休みでしたよね?」

「娘にフラれてね」

 コートのポケットに突っ込んでいたテーマパークのチケットを、積み上げた資料の上へ適当に置いた。中で遊ぶには別料金がかかるらしい、「入園無料」の券。

「要る?」

 2枚揃えて哲郎に差し出す。彼は「今月末まで」と書かれたチケットを受け取り、「じゃあ、遠慮なく」と言った。

 僕らが二人で立ち話をしていると、浪川さんが哲朗を呼んだ。

「コレでいい?」

 哲朗はモニターを見て、「うん、OK」と答えた。

「一応、Slackにもコメント残しておいて」

「りょうか〜い」

「じゃあ、次は画像の差し替え頼んでもいい? コレなんだけど」

 哲朗はモニターにSlackを表示して、該当のチャットを開いた。年度末に合わせた画像変更の依頼を、浪川さんのマウスを横から取って説明していく。

「浪川さん、できるんだ」

「立命の映像なんで、簡単な作業は」

 哲朗は浪川さんにマウスを返し、彼女は楽しそうに作業へ入っていく。Windowsの操作感に戸惑いながらも、テンポよくリネーム作業を進めている。

「て、すみません。勝手に」

「いやいや、助かったよ。浪川さん、後で書類とタイムカードだけ」

 顔をこちらに向けた彼女に、空中で物を書く仕草をすると「は〜い」と明るい声を返してくれた。「ひと段落ついた時とか、お昼休みでいいからね」と声をかけ、自分の席に戻ってSlackを確認する。年度末のテキスト変更やら画像差し替えやらがそれなりの速度で片付いていってる。

 哲朗は、顧客から届いた書式がバラバラのデータを整形してくれているらしい。じゃあ、僕は未着手のLPとCMSのカスタマイズでもやろう。昨日、確認を依頼した件のフィードバック、修正もさっさと片付けたいが、アレは週明けまで動かない。

 作業用のアプリケーションが立ち上がる間に、スマホに通知が届いた。妻の史穂と、長女の陽菜が神戸南京町で水餃子を啜っている写真だった。

 朝はかなり不機嫌に見えた陽菜の表情が、随分と和らいで見える。娘とのデートが流れたのは寂しいが、楽しそうならそれでいい。

 肉まんと月餅を買って帰るように頼むと、夕方にはオフィスに立ち寄ると返ってきた。哲朗と浪川さんの分も頼んでみた。年度末の追い込み、気合を入れて片付けますか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る