第36話 或る雨の日に

 梅雨の季節になり、傘が手放せない日が続いた。

 しかも今日は風も強く、横殴りの雨で制服もびしょ濡れだ。

 さっさと帰って着替えよう。


 急ぎ足で駅に向かっていると自転車が俺を追い越していった。

 下り坂だから結構速度がついてしまっている。

 雨なのに危ないな、と見ていたら──


「きゃあっ!?」


 自転車はマンホールの蓋で滑り、そのまま転倒してしまった。


「大丈夫!?」


 慌てて駆け寄ると、なんと三ツ井さんだった。


「た、丹後くん!?」

「怪我してない?」

「脚、擦りむいちゃったみたい」


 レインコートも破け、膝や手から血が出ていた。


「取りあえずあの軒下に行こう」


 雨が凌げる場所に移動させ、倒れた自転車も持ってくる。


「痛いよね。可哀想に」

「ごめんね、丹後くん。迷惑かけちゃって」

「そんなことより歩けそう?」

「うん。少し休めばなんとかなると思う」

「無理しないで」

「平気だよ。助かった。ありがとうね。もう大丈夫だから行って?」

「そうはいかないよ」


 雨宿りをしながら二人で雨降りの景色を眺めていた。


「自転車でコケるなんて恥ずかしいよね」

「雨の日はあまり乗らない方がいいよ。滑りやすいし、視界も悪くなるから」

「うん。これから気を付ける」


 ここは細い道で通学路として利用する人も少ない。

 車もあまり走っておらず、時おりやってくる車は轍に流れる水で飛沫を上げていた。


「少し雨脚が弱まったかも」

「これなら自転車押して帰れる。本当にありがとう」

「怪我してるのに自転車押していけないんじゃない? 家まで送るよ」

「そんな、悪いよ」

「いいから。ほら、早く行こう。風邪引くよ」

「うん……」


 三ツ井さんが俺のために傘を指してくれ、俺は自転車押して、二人で並んで歩く。


「通りがかってくれたのが丹後くんでよかった」

「俺じゃなくても、他の人でも同じようにすると思うよ」

「そういう意味じゃなくて……ううん。なんでもない」


 三ツ井さんの家は歩いて十五分ほどのところにあるマンションだった。

 自転車を駐輪場に停めて傘を受け取る。


「それじゃ」

「待って。丹後くんびしょ濡れだよ。風邪引かないようにうちでシャワー浴びていって」

「いいって。これくらいで風邪なんてひかないよ」

「お願い。助けてもらったお礼くらいさせて」

「でも」

「お願い」


 冷たい風が吹き、冷えた身体がブルッと震えた。

 シャワーはさておき髪くらい乾かせてもらった方がよさそうだ。


「じゃあドライヤーだけ貸してもららおうかな」

「うん。ありがとう」


 家に入ると灯りが消えていて薄暗かった。


「もしかして一人暮らし?」

「まさか。高校生で一人暮らしはしないでしょ。親は仕事でいないだけだよ」


 ジョークだと思ったのか、三ツ井さんは可笑しそうに笑った。


 どちらが先にシャワーを浴びるかの譲り合い合戦にはなんとか勝利し、借りたドライヤーで髪を乾かしながら三ツ井さんが上がってくるのを待っていた。


 ここで三ツ井さんは暮らしてるんだ。


 当たり前のことが、なんだかちょっと感慨深い。

 学校では感じさせない三ツ井さんの日常や生活を覗き見たような気持ちになり、なんだかちょっと気まずかった。


 脱衣所の扉が開き、フワッとした湯気の香りと共に三ツ井さんが戻ってくる。

 部屋着のジャージに着替えていた。


「丹後くんも入って」

「ありがとう。でも湯冷めしたら余計風邪引きそうだから髪を乾かすだけにしておくよ」

「それもそうか、分かった。じゃあコーヒーでも淹れるね」

「ありがとう」


 三ツ井さんの淹れてくれたコーヒーから立ち上がる芳ばしい香りが、冷えた鼻腔に心地よかった。


「なんかここ最近急に仲良くなったよね、私たち」

「事故してからだよね。三ツ井さんだけじゃなく、いろんな人とも仲良くなった。そう思うと事故もしてみるものだよ」

「えー? やだよ。もう事故しないでね」

「今日チャリでコケた人に言われてもなぁ」

「確かに」


 俺たちの笑い声が二人きりの部屋に響く。


「でも事故はきっかけにすぎないんだよ。元々丹後くんと話をしてみたいなって思ってたから」

「へぇ。それは気付かなかった」

「だろうねー。丹後くんって人当たりよさそうだけどどこか近寄りがたい空気もあるもん」

「バレてた? 実はあんまり大勢の人といるのが得意じゃなくて」

「なんで?」

「たくさんの人といると一人ひとりとあんまり話せないでしょ。なんとなく分かったような感じでいろんな人と関わるのが得意じゃないっていうか。それならよく知った人といる方が気が楽なんだ」

「あー、分かるかも」

「もちろんたくさんの友だちがいる人を否定している訳じゃないよ。賑やかなのが好きな人もいるし。それにどれだけ話し合っても結局他人を完全に理解することなんて出来ない。それならたくさんの人とワイワイした方が気が楽って考え方もあると思う」


 三ツ井さんは俺の目を見てゆっくり頷く。


「でも俺は完全には分かり合えなくても少しでもその人を理解していきたいって思うから。ってなんかごめん。ハズイよね、熱く語って」

「ううん。いい話だと思う」


 三ツ井さんはゆるゆると首を降った。


「出来れば私も丹後くんの深く知りたい相手になれればいいな」

「そんな大層なものじゃないって。ただ普通に仲良くするだけだから。あー、ごめん。なんかすごく恥ずかしくなってきた。忘れて」

「どうかなー? 私、記憶力いいから」


 三ツ井さんはいつものように屈託ない笑顔になる。

 自転車で転んでちょっと沈んだ感じだったけど、元気を取り戻してくれてよかった。


「お、晴れたかも!」


 窓の外を見ると、いつの間にか雨が止んでいた。


「ほんとだ」

「もうちょっと時間潰してから帰ればよかったね。そうすれば濡れることも怪我することもなかったのに」

「ううん。案外あのタイミングでよかったのかも」

「どういうこと?」

「ほら、早く帰らないとまた降ってくるかも」

「そうだった」


 コーヒーをごちそうになったお礼を告げてから三ツ井さんの家を出る。

 辺りには雨上がりの香りが立ち込めていた。


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