第12話 ヨガの呼吸

 土曜日にデートでは実際に奏さんはすみれ色のワンピースを着てきてくれた。

 あまりに似合いすぎて俺の心臓は常にバクバクいってしまった。

 でも肝心の奏さんはいつも通り終始無表情だった。

 街をブラついて買い物したり、ゲーセンで遊んだりというコースではなかなか感情を発露しづらいのかもしれない。


「今日も楽しかった。じゃあ、また」

「あのさ、奏さん」

「はい?」

「明日も、その、会えるかな?」


 奏さんはしばらくポカンとしたあと頷いた。


「うん。会えるよ」

「明日はサイクリングとかしてみない?」

「自転車デートってこと?」

「そう。明日も晴れみたいだし、最近暖かいし、いいかなって」

「なるほど。いいかもしれないね」

「じゃあ明日自転車で迎えにいくから」

「うん。分かった」



 感情というのは笑顔だけではない。

 疲れたり、苦しくても表情は変わるはずだ。


 笑うのが難しくても自転車を漕ぎ疲れたら疲労が顔に出るかもしれないという作戦だ。

 若干卑怯な気もするけど、取り敢えずは奏さんの表情に変化をもたらすことを優先した。




 翌日。

 約束の時間に奏さんを迎えにいくと、既にマンションの前で自転車に跨がって俺を待っていた。


「おはよう。早いね」

「出発前に車両の点検してたから」

「はは。奏さんらしいね」


 今日は動きやすいようにジーンズにTシャツ、それにウインドブレーカーを羽織るというアクティブな格好だ。

 そんなラフな服装でも奏さんが着ると気品があるように見えるから不思議だ。


「どこに行く予定なの?」

「決めてないけど。とりあえず東の方に行ってみよう」

「分かった」


 国道沿いをしばらく走り、山手の閑静な住宅街を進んでいく。

 疲れてもらうのが目的だからなるべく高低差の激しい道を選んで走った。


 しかし一時間を過ぎても奏さんは息を切らしてもいない。

 それどころか上り坂でも速度がほとんど落ちず、涼しい顔で漕ぎ進んでいた。

 むしろ俺の方が息も上がってしまっている。

 なんとか抜かされないように坂を上っていたが、脚がパンパンだ。


「そこの公園で少し休もう」


 俺が苦しくなったのを見て、奏さんがそう提案してくれた。


 自転車を停めて芝生に座ると汗が吹き出してくる。


「あー、疲れた。結構キツいね」

「汗、すごいね」


 奏さんがタオルで俺の顔や首を拭いてくれる。

 嬉しいけれどちょっと恥ずかしい。


「ごめん。タオル、洗って返すから」

「へ?」

「このタオル、俺が持って帰って洗うよ」

「ダメッ」


 奏さんは凄まじい速さで俺からタオルを奪った。


「こ、これは私が持って帰るから……」

「そんなの悪いよ」

「いいの。洗濯は私がするから」

「そう? ありがとう」


 頑なに拒否するのでお言葉に甘えることにした。


「それにしてもすごいね、奏さん。全然息が上がってない」


 さすがに汗はかいているが苦しそうな気配はなかった。


「ヨガをしてるからかな」

「ヨガって、あの不思議なポーズで体勢をキープするやつのこと?」

「そう。ヨガって実は呼吸が大切なの。大きく息を吸い込み、ゆっくり細く長く吐く呼吸でね。動きよりも呼吸を意識して行うの」

「その呼吸法を使って自転車も漕いでいたってこと?」


 奏さんはこくっと頷く。


「自転車だけじゃない。バレーも勉強も全てその呼吸でしてる」

「そうなんだ!?」

「ヨガの呼吸で動くと心も落ち着くし、集中できるし、疲れも感じにくくなるの」

「なるほど」


 いつも冷静沈着なのはその呼吸法も関係しているのかもしれない。

 背筋がピンとしているのも、きっとその影響だろう。


「どうやってするの?」

「一口にヨガの呼吸といっても色んなものがあるんだけど。基本的なものは、まず胡座を組んで」

「こう?」

「そう。そしたら鼻から大きく五秒間息を吸って、お腹に空気をためるの」


 言われるままに息を吸う。


「そしたら五秒かけてゆっくり途切れないように息を吐く」


 フーッと息を吐いていく。

 簡単そうに見えて意外と難しい。


「そう。それを繰り返してみて」


 吸う。

 吐く。

 吸う。

 吐く。


 当然のことながら普段呼吸なんて無意識で行っている。

 それを意識してやった途端、なんだか急に難しいものに感じた。


「はい、ゆっくり吸って」


 奏さんは突然俺の下腹部に手のひらを当ててきた。

 ビクッとしたけど呼吸を続ける。


「はい、吐いて。吐いて吐いて吐いて。空気を全部出し切るように吐いて」


 ぶっちゃけかなり苦しい。

 腹筋とか腕立てとはまた違う種類の辛さがある。

 しかも奏さんの手がお腹より結構下で、際どいところに当たりそうでハラハラしてしまう。


「はい今度は大きく吸って。吸って吸って吸って吸って」


 ああ、また手が下がってる。

 しかも変に意識してしまい、ちょっと反応しかけてしまっていた。


 なに考えてるんだ。

 奏さんは真面目にヨガの呼吸法を教えてくれてるのに、変なことを想像するなんて最低だ。


 ちゃんと呼吸に意識を集中させないと!


 って、ああ、奏さん。そんなに屈まないで。襟首の隙間が開いて谷間が見えてしまうっ!


 なんて不埒なやつなんだ、俺は!

 ヨガの呼吸だ、ヨガの呼吸!



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