第4話 理不尽

『悔しいか?』


 刃が首元に迫る最中、声が聞こえた。


 その声は老若男女が入り交じったような、不気味な声音であった。

 そんな声が海人の頭の中で囁く。


『お前は異世界に来てさえも、誰かに裏切られる』


『それでいいのか?』


『復讐したくはないか?』


『支配したくは無いか?』


 魂を攪拌されるような嫌な感覚に、海人は怖気を覚えた。

 しかしそれを怒りが上書きし、どす黒い瞋恚の炎が胸の内に灯った。


『願え、お前の欲望を』


『祈れ、他者の嘆きを』


 深淵の闇のような昏い声に、海人は負の感情を募らせていった。


「いったい俺が何をしたって言うんだ。現実世界ではいじめられて不登校になって、家にダンプが突っ込んで即死した。そのうえ異世界でも訳が分からないまま殺される? ふざけんな」


 海人は自分のこれまでを振り返って苦笑した後、拳を握り締めながら眼前を睨み付けた。


 そこには時間が停止して白黒となった世界が映っており、ナイフを逆手に持ったリベルテが悲しそうな表情を浮かべている。


「ふざけんなふざけんなふざけんな……!!」


 眼前のリベルテに憎悪を向ける海人は、よりいっそう負の感情を爆発させた。


 彼の黒い感情に呼応するように停止した白黒の世界が脈動し、それが速度を増していく。

 それが最高潮にたちした瞬間、海人の全身を漆黒の雷が打ち抜いた。


「かっ……は……!?」


 凄まじい衝撃に意識が吹き飛ばされそうになったものの、身体を見下ろしてみても傷一つ無い。その代わりに海人の体表で禍々しい黒雷が迸っていた。


『抗うための力は授けた……』


『己の欲望のまま、この世界を生き抜け!』


 黒雷の迸る身体を見下ろしていた海人の頭に、再び不穏な声音が響き渡った。


 この声の主の思惑は分からない。けれど身体の底から溢れる力の奔流が、この状況を打開できる可能性を秘めているということは直感で理解できた。


「鬼が出るか蛇が出るか……」


 海人は焦躁の表情で固まっているリベルテを睨み付けて、彼女の方向へ手を翳した。


 自身の身体から溢れている得体の知れない力が、真っ当なものでは無いと感覚的に理解できる。

 しかしこの力に頼らなければ自分はここで殺される。


「だったら足掻いてやるよ」


 全身を暴れ回る力の奔流を、突き出した腕の先へと強引に収斂させる。


 刹那、白黒の世界が色付き、世界の時間が再び動き始めた。



「っっ……!?」


 瞬きの後、瞼を持ち上げたリベルテの視界を埋め尽くしたのは掌であった。

 それは間違いなく隙を突いたはずの少年のもので、彼女は突然の事態に目を白黒させる。


 しかし彼女の危機察知能力が警鐘を乱打し、向けられた掌の直線上から逃れるため、反射的に跳躍した。


 かざされた掌から向かって右手側に回避行動を取った彼女の左肩を、見えない何かが掠めた。


「くっっ……!!」


 それは肩の表面を一瞬にして抉り、リベルテに耐えがたい苦痛を強いた。

 だが次の瞬間に起きた現象によって、彼女はその激痛を一瞬忘れてしまうほど驚愕した。


 掌の直線上にある石畳の地面が、遙か彼方まで抉り取られていたのだ。


 それを引き起こしたのは間違いなく目の前の少年であり、もしリベルテがあの場に留まっていたら肉片一つ残らずに即死していたかもしれない。

 それを想像した彼女は背筋を凍てつかせ、全身から冷や汗を吹き出した。


 ついさっきまでは力に目覚めていない、ただの少年だったはずだ。

 それなのにリベルテが斬り掛かった途端、この状況に追い込まれた。


「何でだよリベルテさん……。どうして、俺を殺そうとするんだッ!!」

「っ……!」


 海人の心からの叫びに、リベルテは言葉を詰まらせた。


「なんとか言えよ!」


 壊滅的な一撃を免れて膝をついていたリベルテに向けて、再び海人が掌を突きつける。

 彼女はそれを視認した瞬間にその場から駆け出した。


 直後、先ほどまで彼女が膝をついていた空間が円形に削り取られた。

 先ほどの直線的な攻撃とは違い、今度は一点を集中的に破壊する攻撃のようだ。


「ぐっ……!?」


 予備動作を察知して回避したつもりだったものの、リベルテの身体は破壊が起こった地点へ引き寄せられていた。いや、長い銀髪の一房が球形の破壊が起こった地点の真上に縫い止められているのだ。


 はっきりとは視認できないものの、あの地点にはまだ海人の力が及んでいるのだろう。

 その証拠に粉々に砕け散った石畳の破片が、真上の空中に向かって引き寄せられているのだから。


 それによってリベルテの毛先が引き寄せられ、彼女を飲み込もうとしているのだ。

 しかしそれを理解したリベルテは紅炎を発する短剣を迷い無く振るい、美しい銀髪の一房を両断した。


「消し飛べ!」


 しかしその一連の動作によって生じた隙を海人は見逃さなかった。

 自身の髪を短剣で切り裂こうとした瞬間、再び彼はリベルテに向かって掌を翳していたのだ。


「っっ……!!」


 刹那、海人の掌からリベルテがいる位置までの石畳が、一瞬で直線的に抉り取られた。


 目を見開いたリベルテは、迫り来る不可視の攻撃へ向けて咄嗟に短剣を振るった。

 そしてその短剣の切っ先が迫り来る何かに触れた瞬間、砕け散ったと同時に突如として膨大な量の炎が発生する。それは不可視の一撃を焼き尽くし、一瞬にして吹き飛ばした。


「きゃあぁぁっ!!」


 しかしその威力によってリベルテの身体は紙のように簡単に吹き飛ばされる。

 加えて運悪く背後に路地裏への階段があったため、そこから落下して全身を強かに打ち付けてしまった。


「くっ……ぅ……!」


 リベルテは凄まじい衝撃からなんとか立ち上がり、人気の無い入り組んだ路地へ歩を進めた。


 建物の影に身を隠しながら、壁伝いに痛む身体を引きずって進んでいく。

 このボロボロの状態では追いつかれるのも時間の問題だろう。


「う……ぁ……」


 壁に体重をかけながら歩き続けたリベルテは、路地裏の中でも開けた場所に出た。

 そこで足から力が抜けた彼女は、地面にへたり込んでしまった。


「見つけたぞ」

「っ……!」


 背後から声が聞こえたと同時、リベルテの身体が押し倒されて馬乗りの状態に持ち込まれる。

 そして両腕を地面に押しつけられ、身動きが一切出来なくなってしまった。


「さぁ、答えろ。どうして俺を殺そうとした?」

「……それは、貴方が転移者だからです」


 組み伏せられて為す術の無いリベルテは、目を逸らしながら小さく答えた。


「どうしてそれだけで、殺されなくちゃいけないんだよ!」

「それは……」


 言い淀むリベルテの手首がさらに強く押さえ込まれた。

 海人は目の前の理不尽に対する怒りが抑えられないのだろう。


「転移者は悪だからです。今はまだ何も知らず、何もしていなくても、貴方たちはいずれこの世界に害をなす存在になるのです……」

「俺はそんなつもり……」


「今は無くてもいずれ黒に染まる。それが貴方たち転移者なのです。だからその心が蝕まれる前に抹殺するのがこの世界のため……」


 リベルテのあまりに真っ直ぐな目で射貫かれた海人は一瞬たじろいでしまう。しかし彼女が言っていることを理解してやれるほど海人はお人好しでは無い。


 どうして現実世界で無惨に死に、転移したこの世界でもむざむざと殺されなければならないのか。


「そんなのお前たちの勝手だろ……。俺がどんな惨めな人生を送ってきたか知らないくせに……!」

「はい、知りません。けれど貴方たちも勝手にこの世界に来て、全てを蹂躙していくのです」


「ッッ……!」


 自分の人生の惨めさとリベルテの発言によって、海人の中の負の感情がさらに肥大化した。それが身体から放出され、漆黒の雷として彼の身体を迸る。


「もういいよ。お前らの事情なんか知ったことかよ」


 全身に黒雷を迸らせる彼は、建物に縁取られた薄暗い夕空を見上げながら小さく呟いた。


「お前ら異世界人が俺を殺そうとするのなら、俺だって勝手にやってやる。何も知らない世界がどうなろうと知った事かよ」


 空を仰いでいた海人は視線をリベルテに戻して笑った。その瞳は仄暗い感情を孕んでおり、その下卑た視線はリベルテの豊かな双丘に向けられていた。


「っ……!」


 怯えるリベルテを他所に、海人は彼女の衣服を胸元で引き裂いた。

 そして露わになったのは水色の下着に包まれた純白の柔肌であった。


「勝手な都合で俺を殺そうとしたんだ。これくらいの代償は支払って貰わないと釣り合わないよなぁ!」


 表情を歪めて嘲笑う海人。非力なリベルテでは男の力で抑えつけられては身動きが取れない。


「またお前みたいな奴が俺を殺しに来るんなら、ここで楽しんでおかなきゃ損だろ!」


 海人の片腕がリベルテの双丘へと迫る。この先に待ち受ける未来を幻視した彼女は瞼をぎゅっと閉じた。



「リベルテ、プリエの力を準備しておけ」



「!!」

「ぁ……?」


 リベルテでも海人でもない第三者の声が響いた直後、紅蓮の炎が迸った。


 何が起きたか理解できていない海人は、滑稽な声を漏らしながら背後に目を向けていた。

 そしてリベルテの真上にある海人の首元が発火し、静かにずり落ち始めた。

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