その29 決着

 空中。

 体育館から綾乃の胴体と共に投げ出された優作は、実際には自由落下しているはずなのに、時間の流れはとてもゆるやかに感じられた。

 カラスの顔を見据える。

 優作は、こいつにも同情の余地はある、と感じていた。

 本郷家に拾われるという幸運がなければ、立場が逆だった可能性も十分にある。

 だからと言って、放っておくことはできない。

 

 カラスの顔があるずっと先、そこには校舎が――体育館が見えた。

 白妙純心学園となる校舎だ。

 そして、体育館の壁には大きな穴が空いていて、麻琴を中心に、ソフィア、桜子、綾乃の首をかかえた堀之内が立っていて、こちらを見ている。

 皆のためにも、カラスとはここで決着をつけなければいけない。

 こんな状況で、ある空想が頭をよぎった。いや、妄想と言った方が正しいかもしれない。


 真新しい校舎。

 同じクラスに、麻琴がいた。

 優作とは仲がいい。

 だからクラスでは夫婦などと言われてからかわれる。

 でもまだ、お互いの気持ちは口には出せずじまいだ。

 自分と麻琴はそんな「普通」が嬉しくてたまらない。

「普通」という幸せを、まだ咀嚼しきっていない。

 だから。

 その先に最上級の幸福があるのはわかっていても、まだ手を付けない。

 お気に入りは、最後まで取っておくものだ。

 そこへ、違うクラスの桜子とソフィアもやって来る。

 メイド服と長ランではなく、二人ともセーラー服姿だ。

 どんな話をするのだろう。

 一緒に帰ろう? いや、委員会があるかな。部活? 生徒会活動? 図書室で勉強するかもしれないし、自分は成績が悪いから補習かもしれない。



 そんな未来が、あるとしたら。



「……オレはぁッ!」


 優作とカラスは最後の一撃のため、左手を振りかぶっている状態だった。

 だが次の瞬間、優作は咄嗟に体を丸めて、カラスの懐に潜り込んだ。

 同時に、カラスの拳が空を切った。


「……行ってみたいッ!」


 一拍遅れてカラスの顎に左拳を叩きこむ。

 互いが空中で浮いた状態。

 踏ん張りがきかず、殴った優作もその反動でカラスから遠ざかっていく。

 たいした威力はなかっただろう。

 しかし、この状況で勝敗を決するのに物理的な威力はそれほど重要でないことは、優作もカラスも理解していた。

 気付けばもう地面に激突する寸前だった。受け身を取る余裕などない。


「があっ!」


 カラスはまだ補修中の走り幅跳び用の砂場へ落下した。


「ぐっ! ……あ、あれ? 大したことねえ……」


 優作が落下したのは、グラウンド補修用に土が盛られていた場所だった。

 続いてどがっしゃ! っというとんでもない音と共に、土煙を巻き上げながら綾乃の体が優作とカラスの間に落ちて来た。

 あらぬ方向へ関節が曲がり、綾乃の体は一瞬でスクラップになっていた。


「あ、あぶねえ……」


 カラスを殴った反動で方向が変わっていなければ、自分がこうなっていた可能性もあったのだ。

 立ち上がり、歩くことに問題はなかった。

 優作は天を仰いで大の字になって倒れたままのカラスの元に歩み寄って、言った。


「オレの勝ちでいいか?」


 カラスはしばらく空を見上げていたが、優作の方へ視線を移した。


「まったく……あそこはお互い最後の一撃で殴り合う場面やろ。避ける奴があるかい……」

「悪いな。どうしてもなってみたかったんだ……」


 自分たちが撃ち出された体育館の方に目をやる。まだそこには人影が見えた。


「……普通の高校生ってやつに」

「普通の高校生、ねえ。そんなええもんちゃうかもしれんで?」

「それならそれでいいさ」


 普通じゃなくなるのは簡単だ。

 踏み外せば、一瞬だ。


「で、どうなんだよ。オレの勝ちか? まだやんのか?」

「いやあ、本当なら腕が折れて脚がもげても戦いたいところやけど、俺、自分で自分のことラスボス言うてもうたしな。そんとき、真壁クンが言った通りや。ラスボスは倒されてこそその役目を果たせるんや。俺の負けでええ。ラスボスの役割を全うするわ」


 カラスは右腕に触れ、「それに」と続けた。


「人の腕使て戦っとる時点で負けとるんや。ましてや、その腕の持ち主が相手ならなおのこと、な」


 カラス話自嘲気味に笑った。


「そうか。なら、ラスボスのカラスはオレが倒した。立て。垂水十夜」


 左手を差し伸べたが、その手に捕まるための右腕はもうまともに動かないようだった。

 なので、カラスの左手を掴んで、無理矢理引っ張って立たせた。


「白妙純心学園に入れ、垂水」

「実はな、ついさっきまでは、入ってもええかなと思っとったんや」


 垂水も校舎の方を向いて言った。


「でも、やっぱやめとくわ」

「……なんでだよ」

「外から眺めとる方が面白そうやからな。それに、今回の出来事は全部カラスのやられたことにするんやろ? 俺が入学なんてした日には、面倒な連中にインネンつけられ放題やで? それでなくても本郷綾乃のお嬢さんは目立つっちゅうのに」

「そりゃあ……そうだけどよ……」

「なに、心配すな。俺にこの右腕が着いとる限り、嫌でもまたどこかで会うことになるやろ」


 垂水はやっとの思いで右腕を動かしているようだった。自分の顔の前に掲げると、ほんの少しだが青白く光った。


「なあ垂水。その右腕、自分が望んで着けたのか?」

「そうや。俺が拾われたんは、組織で真壁クンの右腕を管理しとった研究員でな。今は闇医者やっとるよ。そいつに、えらい強い力を持った右腕いらんか言われたんや。そんときちょうど『仕事』で右腕をやられてもうててな。真壁クンの右腕やて知ったんは、しばらく経ってからやった」

「そうか。でもその腕はもうお前の腕だ。可愛がってくれよな」

「アホか。そのうち利子付けて返したるわ。でないと、いつまでたっても本当の意味で真壁クンに勝たれへん」


 そのとき、まだ荒れ放題のグラウンドを風が吹き抜けていった。

 すると、空耳だろうか、遠くからかすかに甲子園のサイレンのような音が聞こえた気がした。


「おっと。本郷家の人たちに捕まる前においとませんとな」

「行くのか?」

「ああ。スポンサーに今回の件を報告せんとな。ホウレンソウは大事やで? ほんならな」

「うわっ!」


 垂水は淡く光っていた右手を地面に着くと、砂がぶわっと巻き上がった。


「おい真壁、大丈夫か!」


 体育館の方からやって来たのは、優作や麻琴と同系統と思わせるデザインの戦闘服を着た堀之内だった。手にはいつもの愛銃ではなく、アサルトライフルが握られていた。


「ああ、オッサンか。オレは……無事じゃねーけど大丈夫だ」

「カラスはどこだ? 今すぐ本郷家のスタッフに連絡して――」

「あー……カラスは……どっか行った」

「なんだと?」

「今この辺りを探しても、垂水十夜とかいう名前の野球少年しか見つかんねーから。カラスはオレが殺しそこねて逃げられちまった。悪いな」


 堀之内はカラスの捜索を指示するために通信機を取り出していたが、マイクを口元まで持ってきたものの、そのまま固まってなにか考えているようだった。


「えー……こちら堀之内。カラスは……えーと、申し訳ありません。カラスに逃走を許しました……はい。カラスだけに飛んで逃げました」

「ぷっ……なんだよ、それ」

「オヤジギャグだ。真壁もあと三十年も生きればわかるぞ」


 堀之内にささえられながらヨロヨロと体育館へ歩いていく。堀之内がライフルを上に向けてくるくると回すと、壁の穴に並んでいた人影が飛んだり跳ねたり手を振ったりした。

 それを見て、ようやく勝ったのだという実感が湧いてきつつあったが、どうしても確認しておきたいことがあった。


「なあ、オッサン。綾乃サンとカラスが話してるの聞いてて思ったんだけどよ。カラスをかくまってるスポンサーって、まさか――」

「勝利に水を差すようなこと言うんじゃあねえ、油圧式野郎。けど、まあ真壁もある意味被害者だからな……」


 堀之内は険しい顔をして言葉を探しているようだった。


「……本郷家も、一枚岩じゃねえってこった。俺が言えるのはここまでだ。安心しろ。真壁は正しい道を進んでる。お前は普通を目指すんだろ? だったらこっからは大人の仕事だ。余計なこと考えてる暇あったら英単語の一つでも覚えろ。わかったな?」

「ああ……わかったよ」

「regular、normal、usual、common、ordinary、general。このあたりの単語から覚えとけ」

「なんて意味?」

「辞書を引け、辞書を。お前が好きな言葉だよ」


 口で言われてもピンとこない単語があって、優作は最終的に麻琴にスペルを確認してから自分で辞書を引いて調べた。

「正常」、「一般的な」、「特別ではない」、「普通」とか、だいたいそんな意味だった。

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