その28 空旅


 一歩、一歩と足を動かすたびに激痛が下から上に登ってくる。


「……っく」


 だが幸運なことに、体中を駆け抜けるこの激痛が、感覚の復元を促してもいた。


「優作、歩ける? がんばれ、渡り廊下の突き当たりに、あたしたちが目指すものがあると思って進んで」


 ちくしょう、なんかカッコイイこと言いやがって。

 右腕だけで優作の体を支えるのに麻琴だって必死なはずだった。

 だから、麻琴の言葉はこの上ない励みとなった。

 渡り廊下の北端にある体育館と教養塔の間には校舎が三棟ある。

 相変わらず激痛は続くが、歩く速度は徐々に上がっている。

 教養塔のすぐ隣にある校舎を過ぎたとき、背中の方、真っ直ぐ後ろに殺気を感じた。

 優作と戦っている間は発することがなかった、初めてカラスが姿を現したとき、麻琴に向かってナイフを振り下ろしたときと同じ殺気だ。


 ただのプレッシャーではない、明らかな殺意。

 おそらく麻琴も感じているだろう。

 カラスが脚のブースターを使えば一瞬で追いつかれるのではないか?

 ソフィアは、桜子は無事だろうか?

 もうどれくらい差を詰められた?

 心の中を様々な不安がよぎっていくが、優作も麻琴も絶対に振り向くことはしない。


 振り向く暇があったら、歩みを進めるのだ。

 麻琴が言ったように、そこに光が――目指すものがあると信じて。

 近い。おそらくもうカラスの間合いに入った。

 空を切る音がした。カラスがナイフを振り上げたのだろう。

 あれだけお喋りだったカラスが一言も発しない。

 本気ということだ。間違いない。

 狙いは麻琴だ。

 体は動かせるくらまで回復していた。自分の腰のあたりを左手で触れてみる。さっきの戦闘中に銃は捨てたのでもう持っていない。

 だが、いつもぶら下げているものはしっかり腰についていた。


「麻琴ッ! 伏せろ!」

「わかった!」


 後ろを振り返ったのは、教養塔の突き当たりの目前。ちょうど、教養と渡り廊下の境界線だった。

 麻琴も殺気を感じていたのだろう。即座に優作を支えるのをやめ、前方に転がった。


「なんッ!? 試合球か!?」


 振り下ろすカラスのナイフに向かって、いつも義手を馴染ますのに使っている試合球を押し付けた。

 刃は試合球を切断することができず、食い込んで動かなくなった。


「なんや真壁クン、起きとったんか……これよ、この意外性。それでこそ、それでこそや!」


 だから何でお前は意表を突かれて嬉しそうなんだ。

 と、その時、ソフィアよりも、カラスよりも速い速度でこっちに迫る黒い影が見えた。


「よく持ちこたえたわ。上出来よ」


 黒い影の主はもちろん綾乃だった。

 だが、その風貌は異様で、両腕は肘から先だけが巨大化したかのように大きくなっており、両脚は袴のように広がっていた。

 綾乃はその巨大な両腕を大きく広げ、腕の上からカラスに抱き付くと、くるりと体を入れ替えて、優作と麻琴の前に体を滑り込ませた。


「これはまた……物凄いことになってんなあ、本郷綾乃のお嬢さん」

「ええ。これからもっと物凄いことになるから、楽しみにしていてね」


 袴のように見えた両脚が展開し、さらに末広がりになると、ぃぃぃぃぃんというジェットエンジンのような音が響き出した。


「な、何をするつもりや!?」

「飛ぶのよ。私の体と。そしてこの渡り廊下は滑走路。カラス。あなたはここから出て行ってもらうわ」

「くっ……なんて力や……」

「あなたは為す術もなく地面に叩きつけられるの」


 カラスはどうにか綾乃の巨大な腕を振りほどこうとしているようだったが、完全に密着して恐るべき力で押さえつけられているのだろう。首から上だけを痙攣しているように動かすだけだった。


「無駄よ。このままあなたを小さく折りたたむことが可能な程度には、今の私は力持ちなんだから」

「離せ! まだ真壁クンとの戦いは終わってへんのやぞ!」

「さようなら、カラス」


 綾乃が合図を送ると、渡り廊下のずっと先でこちらの様子を窺っていた堀之内が姿を消し、代わりに、こことは逆の突き当たり。つまり、体育館の壁に向かって小柄な人影が現れた。


「ソフィア……無事だっ……うわっ!」


 気を抜いたつもりはなかったが、ソフィアが無事だったことに安堵した刹那、カラスの長い右腕にがっちり抱え込まれてしまった。


「ぐっ! 離せっ」

「優作!? 今すぐ離れなさい! もう私の意思では止められないわ!」

「そんなこと言われても、こいつ物凄い力で――」


 言葉を発することができたのはそこまでだった。綾乃の両脚が点火し、渡り廊下を滑走路の如く疾走を始めた。


 これは呪いだ、と優作は思った。

 自分が捨てた右腕が、そうはさせるかと優作を道連れにしようとしているのだと理解した。

 みるみるうちに体育館の壁が近づいてくる。そして、こちらに背を向けていたソフィアが、何をやっていたのか理解した。

 直後、このまま真っ直ぐ突っ込んだら激突するであろう体育館の壁に巨大な穴が空いた。

 ソフィアが全力の衝撃波で破壊したのだ。

 カラスを白妙純心学園から排除するために。


「いい、優作。落下地点はグラウンドよ。このまま投げ出されても、恐らく死ぬことはないわ舌を噛まないようにだけ注意して、覚悟を決めなさい!」


 もうカラスの腕を振りほどこうと、もがくことができる速度ではない。一棟、二棟と渡り廊下から左右に伸びる廊下を通り過ぎ、1Aの教室に通じる廊下を通過したとき、そこで堀之内がいつもの愛銃を構えて立っていた。


 堀之内の前を通過する一瞬、銃声が響く。

 カラスを撃ったのかと思ったが、違った。

 堀之内の銃弾は綾乃の背中――肩甲骨の中心を撃ち抜いた。そして。


「優作。さっきは私を信じれくれたわね? 今度は私が信じる番よ。空中で決着を着けなさい。なんとかしなさい。それでは、快適な空の旅を。グッドラック」


 そんな笑えないジョークを言うと、綾乃の首がすぽーんと発射され、体育館の高い天井に舞った。みるみる遠く離れていく。


「ええええっ!? そんな機能あったんですか!?」

「な、なんやあれ……冗談きついで、まったく……」


 綾乃の首は床に激突する前に堀之内が受け止めたようだった。綾乃を撃ったのは、首から上を強制射出装置を作動させるためだったのだろう。この状況にカラスさえも呆れていた。

 後方ばかりに気を取られていたからだろう。

 優作は、自分が既に空中に投げ出されていることに気が付いたのは、体育館の外壁が視界に入ってからだった。

 カラスの右腕はもう力尽きたようで、光を纏っていない。だらんと垂れ下がったままだ。

 頭を失った綾乃の体も機能を停止し、カラスは身動きを取れるようになったらしい。


 不意にカラスと目が合う。


 綾乃は言った。


「空中で決着をつけなさい。なんとかしなさい」


 あとどれくらい浮いていられるだろうか?

 地面に激突したらろうなるだろうか?

 そんなことを考えている余裕などなかった。

 優作はそもそも右腕が、ない。

 カラスも右腕は動かない。

 弓を引き絞るように左手の拳を引いたタイミングは、二人ほぼ同時だった。

 カラスは言った。

 自分はラスボスだ、と。

 優作が捨てた右腕の呪いそのものだ、と。

 成仏させて、ケジメをつけろ、と。

 だったら。


「オレはケジメをつけて先に進むッ!」


 このまま拳をカラスの顔に向けて振り切ったら、おそらく同時に自分も殴られるだろうことはわかっていた。

 綾乃はなんとかしろと言った。

 だったら歯ぁ食い縛って耐えて、落下の衝撃にも耐えて、再度立ち上がってみせる!

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