その20 断末

「どうしましょう、ソフィア。追いかけますか?」

「静かに。この足音は……階段を昇ってるね。まだ校舎の中に留まる気なら、追いかけよう。この学校から出て行くまで。どうせ行先はわかってるんだ」


 稲田が逃げるのは、まず間違いなくあの部屋だろう。

 先日、ソフィアが大穴を空けた、女臭い理事長室だ。

 五階まで登り、足音を忍ばせ近づくと、中には誰も居なかった。

 ソフィアが吹き飛ばした両開きの扉はそのままになっており、下品なラグは済に寄せられて丸くなっていた。

 穴も空いたままだ。

 扉がなくなり穴が空いて風通しが良くなったせいか、以前のような女臭さはなくなっていた。


「いない……」


 物は多いが、広い部屋ではない。確認もそこそこに、ソフィアが理事長室から出ようとすると、穴から外を見下ろしている桜子に呼び止められた。


「凄いですね、本郷家の方々は。戦闘の最中だっていうのに……」


 そこかしこで校舎の修繕が始まっている様子は、理事長室に来る途中でも見下ろすことができた。

 各棟の屋上や戦闘に関係の無い区画では、大がかりな工事も始まっている。


「あたいらみたいに殴り合うだけじゃなくて、こんな状況でも校舎を修繕し続けることであの人たちも戦ってるのさ。だから、稲田みたいな奴は追い出さなきゃいけないんだ。行くよ、桜子」

「ええ、そうですね」


 桜子が穴に背を向け、理事長室を出ようとしているソフィアに向かって歩き出した瞬間だった。


「だぁれを追い出すってえええええええええええええええぇぇぇ!?」


 部屋の隅に立てかかるように吹き飛んでいた扉の陰から、隠れていた稲田が飛び出して来た。

 振り上げた右腕には紅い剣。この短時間で能力が元に戻っていることも驚きだが、怒りのせいか、剣は通常よりも一回り大きくなっているように感じられた。

 完全に背後をとられた桜子は、銃を構える暇もない。

 ソフィアは即座に身を屈め跳躍を試みるが、自分でも感じていた。

 きっと間に合わない。

 桜子の目が言っていた。


 私は斬られます。その隙に稲田を穴から突き落としてください


 わかっていたのに。

 稲田がナチュラルにこういうことをする奴だということを。

 わかっていたのに!

 跳ぶ。

 稲田の右腕が振り下ろされ始めた。

 ダメだ。

 間に合わない。

 届かない。

 ソフィアは今ほど手足の短い自分の体を呪ったことはなかった。

 跳躍しながら、必死で手を伸ばし。

 やはり届くことはなく。

 きつく目を閉じ、顔を背けた。

 ソフィアが着地したのとは別のドッ! という音がして、直後に破裂音。

 同時に、天井で何かが壊れる音がした。

 目を開けると、稲田の肘から先が無くなっていた。


「は……はぇ……ええぇ!? 腕、が……あれぇ?」


 腕は、稲田の体を離れ、宙を舞ってゆっくり回転していた。稲田の体から離れてもなお、紅い刀身はまだ健在だった。そして。


「な……何が起こっ、んっ……」


 紅い剣を出したまま宙を舞う右腕は、回転しながら落下して稲田の首のあたりに突き刺さった。


「あ、あっ……いっ、痛っ……」


 稲田はまだ何が起こったのか理解が追いつかず、パニックになりながらも、残った左手でなんとか剣を引き抜こうとしている。

 直後、剣は引き抜かれたが、その反動で稲田の体は大きくよろけた。

 壁の穴の方に向かって。


「あっ、ああああああああああああああ!?」


 そのまま稲田は落ちて行った。

 引き抜いた瞬間に放り投げられた右腕が、壁に突き刺さっていた。


「な、何が起こったんでしょう……?」

「前言撤回だ、桜子。本郷家の人たちは、校舎を修繕することで戦っているんじゃない。『校舎を修繕しながら』戦っているみたいだ、ほら」


 壁の大穴からソフィアの指さす方向に、教養塔より一つ北にある校舎の屋上からロープにつられている人物が、こちらに向かって親指を立てていた。

 外壁の補修をしているのかと思いきや、その手には長い銃身のライフルが握られていた。

 ライフルを撃ったであろう人物は、今度は稲田の落下地点に向かって立てていた親指を反転させて下に向けた。


「あれは……堀之内さんだわ」

「ぶら下がった状態で稲田の右腕を撃ち抜いたのか……知り合いなのか?」

「ええ、私に銃の扱いを教えてくださったのはあの人です」

「そうか。命の恩人だな。それにしても稲田の奴、あっけなかったな」

「そうでもないですよ、ほら」


 稲田の右腕は、未だその刀身の光を失っていない。


「死んだ……よな?」

「この高さから落ちて無事とは思えませんが……。とにかく、このことを綾乃さんに報告しましょう」


 理事長室から出るとき、ソフィアは壁に突き刺さった稲田の右腕に目をやった。


「ハッ、腕だけの方がいい男だよ、あんた」


 その言葉に応えるように、腕の切断面から血の雫が一滴、落ちた。

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