その4 核心
優作が暮らしている部屋は本郷家の屋敷の裏、細い私道を挟んですぐのところにあった。
綾乃の書斎を後にして屋敷を出ると、ぱっと見ただけではわからない、まるで隠し扉のような通用口をくぐって私道に出る。
そこから塀に沿って少し歩いたところにある平屋が優作のプライベートな空間のはず――だったが、そこには既に明かりが灯っていた。
一応本郷家の敷地内なので、週に何度かは屋敷のメイドがやって来て掃除をしたりしてくれるのだが、今はもう21時を回っている。こんな時間にメイドは来ない。
しかも、明かりが点いているのは優作の寝室だった。
本郷家の関係者で、優作の部屋の鍵を持っていて、そのうえ勝手に寝室まで侵入してくる輩など、一人しかいない。
「ただいま」
「おかえり、意外と早かったね」
麻琴は既に寝巻用の黒いスウェット上下に着替え、優作のベッドにうつ伏せになり、子供のように脚をバタバタさせながら点けっぱなしのテレビをBGMに本を読んでいた。人の部屋でこのくつろぎっぷりである。
優作と麻琴は別にこの部屋で同棲しているわけではなかったが、麻琴は頻繁に優作の部屋を訪れる。
「あ、ごめん。チャンネル変えよっか?」
テレビではスポーツニュースで、数日後に開幕する春の甲子園の特集をやっていた。
式が学校を占拠するような事態が起きているにもかかわらず、そんなことはなかったかのように(正確には、そんなことは無視して)、日本の高校野球人気は衰えることを知らなかった。
当然、式と判定されてしまうと、高校野球はもちろん、一般的なスポーツ大会には出場できず、式向けのレギュレーションになった特殊なカテゴリの大会にしか出場できなくなってしまう。
「ん? ああ、別にいいって。そのままで」
中学一年生まで優作は将来有望な投手だった。麻琴はそのことを知っているので、気を使ってくれたようだった。
「むしろ今年は物凄い投手が出てるから気になってたんだよ。ほら、こいつ」
画面には「超高校級右腕、春夏連覇なるか」と字幕が表示されていた。
「
昨年、夏の甲子園の中継で解説をしていた、社会人野球の監督が言ったフレーズが、彼の愛称となった。
『なんということでしょう! 川口の前では甲子園の魔物と言われる番狂わせすら起こりえません!』
『川口君自身が魔物みたいに凄いですからねー』
このアナウンサーと解説のやりとりがあった試合の後から、川口龍星は「マモノ」と呼ばれるようになった。
「高校野球は『怪物』とか『王子』とか、名前つけるの好きだよねぇ」
「まあ、川口に関してはオレも化物だと思うぞ」
「検査にひっかかってないだけでさぁ、実は川口くんも式だったりして」
「それはないだろ。特待生ですら口うるさく言われてる高校野球だぜ?」
そもそも、高校野球かどうかは関係なく「式かどうか」は厳しく検査されることを優作も麻琴も身をもってよく知っている。
「まあ、単純な身体強化の能力だったとしても、それだけじゃあ野球は上手にならねえだろ」
「『野球が上手にできる』っていう能力かもよ?」
「そんな能力の式ばっかりだったら平和なんだがな」
顔を見合わせて苦笑する二人をよそに、テレビ画面では川口龍星が日焼けした肌と対照的な歯並びのいい白い歯を見せて楽しそうに練習しているVTRが流れていた。
川口龍星の笑顔は、そのままポスターにできそうなくらい完璧だった。
特別美男子というわけでもなかったが、なんというか、世間一般が求めている「理想の高校球児像」が具現化したかのような存在だった。
仕草も、笑顔も、もちろん技術も、何もかも完璧すぎて、新興宗教の創始者のような胡散臭さすら感じるが、きっとそれは自分の嫉妬だというのも優作は理解していた。
怪我をしていなければ自分もこいつみたいになれただろうか、と考え始めていることに気付いて、優作はやはりチャンネルを変えることにした。
「そういや麻琴、何読んでんだ?」
「ん? 日本史の教科書だよ」
麻琴は教科書の表紙を見せるように優作に向かって突き出した。
「別に今からやんなくても麻琴だったら一ヵ月あれば大学に入れるくらいにはなるだろ」
言いながら優作は自室から部屋着のジャージを取り出すと、一応部屋を出て、麻琴からは見えない位置で着替える。
優作の住む平屋は玄関を開けるとすぐにダイニングキッチンがあり、そこに脱衣所とバスルーム、トイレ、優作の自室が隣接している。
新しくはないが、ボロボロなわけでもなく、高校生が生活するには快適すぎる空間だった。
「それじゃ意味がないだろ。あたしたちは『普通の高校生』を目指してるんだからさ」
「それもそうだな……」
普通の高校生。
それはいつしか二人の合言葉のようなものになっていた。
優作は中二の春から綾乃が全てを取り仕切る、本郷家の「施設」で一般教養と戦闘訓練を受けてきたが、いわゆる「普通の」学校生活とはかけ離れた生活だった。
ある事情があって本郷家にやって来た優作は、精神的にも、「身体的にも」、いくつかの物を失っていた。
言葉すら失い、自分を失くす寸前だった優作を救ったのは、「施設」での唯一のパートナー、麻琴の言葉だった。
「一緒に普通にならない?」
自分たちは普通じゃない。
それは優作も麻琴も理解していた。だからこそ、二人が描く未来の青写真は「普通」にこだわった。
その後も、テレビを見たり、他愛もない会話をしたりして1時間ほど過ごし「じゃあ、おやすみ」と言って麻琴は帰っていった。
優作は、勝手に麻琴が自室に入っていることを咎めもせず、麻琴も麻琴で特になにか用があったわけではない。
ただ、なにか現実離れしたこと(主に戦闘)がおこなわれた日の夜は、決まって麻琴は優作の部屋に来た。
どうでもいい会話をすることで、戦闘によって「異常」に振り切ってしまったお互いの精神が「普通」に戻っていく感覚があった。
優作は、麻琴と部屋で二人きりでいることに思春期の少年として多少の思うところがないでもなかったけれど、それも年相応の反応なんだと安心できた。
ただ、いつも優作は思う。
普通の15歳は、自分が普通であることを確認して安心したりしない。
左手で、自分の右腕に触れてみる。
自分自身の「異常の証明」が右腕に、ある。
だから、麻琴だけでも普通でいてもらうんだ。
そのための自分だ。
それも、優作がいつも思っていることだった。
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