Ep.8 バーチャル悪代官

 車は空間を飛び、バーチャルの下層へ辿り着く。

 悪代官の武家屋敷は、暗い森の道を進んだ先にあった。

「大きい」

 鳴神の1DKとは大違いだった。

「さあ、こちらへ……グフフ」


 先に降車した悪代官は、客人をもてなすように屋敷へ案内する。秤は土間を上がり、曲がりくねった長い廊下を歩かされる。見事な庭園が廊下の間に見え隠れして、もはやどこを歩いているのかも分からなかった。


 言われるがままに客間に座ると、悪代官は秤の身の上を聞き始めた。

「なるほど、突然追い出された。鳴神殿もお人が悪い。いや、あの御方にも相応の考えがあるやもしれず……」

 悪代官は、キセルを咥えながら相槌を打った。


 聞き役に徹している悪代官を見て、秤は肩の力を抜いて話そうと思うのだった。そうこうしているうちに、不意に話が切り替わった。

「……秤殿がお持ちなのは、不正IDでしたな。この世界の歪み。綻びから、貴女はお生まれになった」


 秤は俯いて言う。

「そうみたい。……私は、最初から要らない子なんだ」

「無意味なものなど、ありませぬ。特に、このバーチャルに於いては」

 キセルの灰をトントンと捨てる。


「世界の綻びだからこそ、出来ることもありますぞ。聞いたことはありますかな。管理者が封印したという、伝説の “権限承認” を」

 悪代官の目が光る。

「何をするのも許される、べらぼうな “権限” を付与する方法が、かつてのこの世界にはあったそうです。オバママ……などというネームが残っておりますが、その者が “権限” を濫用し、自壊して滅び、それから禁じられたと。この世界の枠から半ば出た、秤殿ならば、あるいは」


 秤は、自らの両手を返して、見つめた。

「……そんな力、無いよ。私には」

「悲観することはありませぬ。ただ、その時が来たら、この悪代官の言葉を思い出しなされ。本当に大事な誰かのために、力を使うのですぞ。己を信じれば、成せましょう」


「……」

 鳴神譲りの、鷹のような瞳が揺れた。

「秤殿がよければ、しばらくここに滞在するのもよいかと。幸い、部屋は開いておりますからな、グフフ……」

 下心みえみえの言い方ながら、それでいて悪代官は他意のない様子だった。

(裁より、ずっと優しい)

 秤は心の奥の波立ちに、表情を崩しかけた。


「よいのです。今後に不安があるのなら、癒やす方法を少し、心得ておりまする故。準備して参りますぞ」

 そう言い残し、襖が閉まる。


 再び現れた悪代官は、女性の姿に変じていた。

 溢れるような紅い髪に、頬のラインに沿った隈取り。

 声は男のものだが、どこか若々しい。


「悪代官・焔嬢にございます。この姿の方が落ち着くかと思いましてな。ささ、楽になりなされ……」

 悪代官・焔嬢は膝枕をポンポンと叩く。

「こ、こう?」

 促されるままに、その場で秤は横になった。

 黒いリボンを解けば長いはずの、紫の髪が畳に広がる。


「こちらですぞ」

 中腰となり、音も僅かに近寄る。

 そして近くに座り直し、秤の頭を自らの膝枕に乗せた。

「え、あ、いいのかな……」

「構いませぬ」


 焔嬢は懐から耳かきを取り出し、秤の紫の髪を分け、その耳穴にそっと入れた。

「ひゃっ」

「くすぐったいでしょうが、我慢なされよ」

 耳の奥で、こりこりとした感触が響く。


 ASMR。悪代官が密かに研鑽を続けている技のひとつだ。男声Vtuberとしては未だ、珍しい技能といえた。

「あ……あっ、あ、はぁっ、はっ」

「身も心も……、すべてを任せなされ……」

 意識が遠のいてゆく。

 心地良い音と感触に包まれて、秤はただ、目を閉じた。

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