Ep.5 “界隈” の智者

 目指す事務所は、 “物申す界隈” の端、境界線のような場所に立つビルの三階にあった。抜けそうな錆びた階段を登ると、「スシテンコ」と黒の丸ゴシック体で、磨りガラスの窓に簡素に書かれたドアがある。迷わず叩いた。


「入れ」

 ぶっきらぼうな返事。

 ドアノブを回して、いかにも昭和然とした部屋に入室する。一番奥の椅子に、背もたれの高さを余らせて、そいつは座っていた。

 白髪ロングヘアに、やはり赤い目。女子高生のようなシャツに紺色のベスト、胸の赤リボン。スシテンコ先生。


 何が「スシ」で、何が「テンコ」なのか俺は知らない。このバーチャルの裏方事情を知る有識者として、この女……ロリパコと一緒で、声は男だが……の名前が挙がったので、ひとつ訪ねたまでだ。


 大きな卓に両肘を付いて指を組み、スシ先生は言った。

「お前が鳴神だな。伸び悩んでいるんだろう?」

「俺が言いたいのは……」

「ゼロをイチにするのは、無理だ。だが、勢いのあるお前を、そうだな……、地に足の付いた値にしよう。総リスナーが10万なら、13万だ。1.3倍にすることなら、今すぐにできるぞ。ただし、私の助言に従うならな」


 突然の提案に、俺はうろたえた。

「そんなことが……!」

 スシ先生は立ち上がる。

 喋りながら、俺の後ろに回り込んできた。


「可能だ。ただし、お前のあらゆるデータを収集させてもらう。現代においては、データこそ富を生み出す、金の卵の鶏だからな。特異なVtuberであるお前から頂く、またとないチャンスだ……まずは三ヶ月、いや一ヶ月でもいい。それで効果が出て、私を信用してくれるなら、半年の契約をしよう。どうだ?」


 なにかよく分からないが、魅力的な提案だった。

 俺はそれを振り切って、要件を切り出す。

「……いや、買い被ってくれるのはいいが、今日はその相談で来たんじゃない」

「違うのか?」

「そうだ! あいつの、秤のことだ」


 俺は秤との暮らしを話した。

 何故か部屋の合鍵を持っていたこと。

 俺と秤のIDが同じだったこと。

 部屋の分割で揉めたこと。

 引きこもっていた秤が、見ている配信やテレビ番組に関心を抱いて、仕切りの外に出てきたこと。

 初めて作ったカレーのこと。

 毒づく委員長に小突かれながら、少女趣味の服を買ってきてやったこと。


 スシ先生には簡潔に話せ、と言われもしたが。

 言葉にしてみれば、次々と思い出が浮かんでくる。いきなり家に居候されて、疎ましく思っていた筈なのに。


「あいつが “物申す界隈” に来た時、邪推系が荒れ野に生えたミュージックフラワーの前に体育座りで居てさ。あいつ見た目はJKなんだけど、女嫌いで……だけど、秤は遠慮なく近付いていったんだ。それから、二言三言、言葉を交わして……、邪推の笑った顔を、初めて見た」

 自嘲がこみ上げる。

「その、奇跡が起きたって思った」

 奇跡。普段の俺が使う言葉じゃない。

 これこそ、奇跡か。


「そうだな」

 座り直した先生が身じろぎする。そして、言った。

「長続きしないから、奇跡と言うのではないか?」

「……」

「奇跡がいつまでも続くようなら、それは日常だ。突然起きて、突然過ぎ去ってゆく。そういうものだろう?」


 内側で膨らんでいた不安の塊を、一言でスシ先生は探り当てたのだった。この日々には、終わりがある。

「屍鬼。管理者に仕える始末屋、あいつが秤を探している。奇跡が終わる……おそらく、その通りになる」


“お前の周りで、何かおかしな出来事は無かったか? それだけ聞きてぇんだ”


 秤を捕らえるため、屍鬼は俺に近付いてきたのだ。

 鳴神裁と鳴神秤のIDの重複、有り得ない出来事――このバーチャルの世界に起きた綻び、奇跡バグを回収するために。


 スシ先生は慎重に言葉を紡ぐ。

「……IDが重なるというのは、前例の無い事態だ。管理者が事を重く見るのは当然だろう。私としては――秤というのか、その娘を屍鬼に引き渡す。お前は何もかも忘れて、元の日常に戻る、それが正しいことに思う」


「な……」

 言葉を失う俺を、スシ先生は見なかった。

 そうだよ。その通りだ。

 正しいこと。正義。秤を見捨てる。

 これが、こんなことが正義かよ。


「くそっ、何か助言が得られると思ったが……」

 片手で髪を掻き回して、俺はドアに向かう。

 去り際、吐き捨てるように、言った。

「当てが外れたな」

 スシ先生は責められない。分かってる。


「相談料は要らん。よく考えて、今後を決めてくれ」

 夕日の影となり、先生は言った。

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