Ep.2 掃き溜めの癒し湯
いま追っているネタ。悪代官。考えることが多い。
渋カフェでも余る思考を抱えて。
いつものパーカーを着た俺が、自然と足を向けたのは “物申す界隈” だ。
一般に “界隈” とはバーチャル界全般を意味するが、俺の周りの “界隈” となると、この “物申す界隈” をピンポイントで指すだろう。スラムなんて呼ばれるだけあって、相変わらず荒れている。
半壊した建物群、痛んだトタン屋根、未舗装の石礫。
そして、常に傾いた茜色の日差し。懐かしい夕景だ。
俺がここに居たのは活動初期の僅かな間だけ。普通のバーチャルならまず寄りつかない所だが、ここには特別な施設がある……見えてきた。
古びた暗い街並みの中に光る、ひとつの看板。
“申候湯”
それは、銭湯だ。
身体が動き、履いていた靴を揃えて下駄箱に入れ、上がり込む。
番頭にキャッシュをペイして暖簾を潜れば、木の香りのする脱衣所だ。束ねた後ろ髪を解いて、服を畳んでロッカーに放り込み。腰にタオルを巻き、俺は入り口のガラス戸を引いた。
湯煙に包まれて、洗い場があった。まだ客は少ない。
俺は適当なカランに座る。自然、鏡が目に入る。
我ながら、そこそこ引き締まっているが、自慢できる筋肉は付いていない。
特に感慨もなく、シャワーで軽く身体を洗った。
そして立ち上がり、足下に気を配りながら。
木の扉、これが目当てだ。
サウナ……俺の心身を調律するもの。
扉を開ければ、焼けるような熱風が押し出されてくるだろう。近付くのもはばかれる熱さの石積みが加熱され、その上から散かれた水は、瞬時に蒸気となって肌を責め苛む。内側が焼ける感覚に、深い息はためらわれ、身体中から噴き出した汗がしたたり落ちる。置き時計の針だけが、のろのろとした時間の経過を示すのみ……。
心臓の鼓動が早まってきたのを見計らって、外に出る。慌てず、かけ湯をして汗を流し、それから始めるんだ。
サウナの最大の魅力、水風呂を。
水面がこれほど遠いと思ったことがあるか。首から下が水に浸かるまで、震えが続く。何度やっても、一度目は本当に苦しい。
しかし、間もなく水温は感じられなくなる。
ここからは快楽しかない。
身体を動かしても、もはや苦しみはない。膜に包まれたような感覚が続き、この冷たい水にいつまでも入れるような万能感すら興ってくる。
まあ、一~二分で終わりにしよう。
最後は座って休憩だ。身体を拭いて、外気を浴びる。
繰り返せば、じきに知れる。「ととのう」とは、こういうことであると。
俺は、サウナの扉を開けるまでに一連の儀式を思い描き、反芻した。
美しい時間が、そこにある。
さあ、熱い蒸し箱を開けようか。
意を決して、扉に力を込めた。
予想通りの熱風が吹き付ける。
奥の段に一人だけ座っていた。
俺と同じように、腰にタオルを巻いた、白髪の年少アバターだ。
見るなり、片手を上げて親しげに。
「よお」
汗が滝のようで、入ってから長そうである。
俺はそのまま扉を閉めた。
――再び、開ける。やはり白髪が座っていた。
俺は嫌な表情になっていたと思う。
「お疲れさん。待ってたぜぇ……」
「知らない顔だな」
サウナの段に腰掛けて、熱気の中で口を開けるだけで、居られる時間が短くなりそうだ。およそ会話に適した場所ではない。神聖な儀式を乱した気さえする。
話すなら、外へ出るか。俺は顎で示した。
「構わねぇ。おれぁ、死神の屍鬼だ。ま、覚えてくんな」
「あぁ……」
聞いたことはある。生者に訓戒を垂れる死神がいるとか何とか。死神という視点から、人間を観察して出てきた言葉が人気を呼んでいるのだと。バーチャルなので、本当に死者を看取ったというわけでは無いだろう。
それでも、自分でそう名乗る限りは、こいつは死神なのだ。
「おれの仕事はリスナー(外に留まっている鳥の群れの、目の奥にいる視聴者達のことだ)に俗世を生きる上でのアドバイスを授けることだがぁ、それとは別にな、もう一つあんのよ。面倒なやつが」
死神が指を立てて、ギザギザの歯でニッと笑う。
額から汗が落ちた。
俺の腕からも、滴が噴き出している。
「この世界の維持運営のために働く、大層な仕事がな。もっと言えば、 “管理者” の哀れな
そこまで言って、息が絶え絶えになる。
「水でも飲んでこい」
「ハァー、ハァー、まあ待て、手短にな」
「それはお前だろうよ。しかし、“管理者” か……」
バーチャルのような人格はない、上位のシステムという認識だが、その名が出るのはただ事ではない。
「察しの通りだぜェ。 “好ましからざる事態” だ」
「具体的に言え」
「子細を知る必要はねぇ。ただ、お前の周りで、何かおかしな出来事は無かったか? それだけ聞きてぇんだ」
前にかかった白髪の間から、オッドアイの信号機みたいな正眼で見つめる。
サメのような歯に噛みつかれそうだ。
「……」
時計の針が遅い。サウナの中では、よくある体感だ。
こいつは何かが起きているのは知っているが、具体的に何が起きたのかを知らない、そういう意味にも取れる。
俺は、率直に答えた。
「勘ぐるような事は、何も無いな」
「そうかァ」
死神は小さく笑って、ようやく腰を上げた。
「まあ、気付いたことがあったら、先ず俺に言え。それだけだァ……」
死神は、足取り重たげにサウナの外へ出る。
ふわりとした外気が、心地良さをもたらした。
気付いたこと、か。
石の塊が、熱を発してパチパチと鳴る。
気温が上がってゆく。
偶然、悪代官のおっさんも似たような言い回しをしていたっけ。俺は気持ちを切り替えたつもりで、サウナに集中する。
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