閑話 猿と呼ばれたモノ・サンジュ

 彼に名は無かった。

 狂暴な肉食の猿の魔物の一匹に過ぎなかった彼が知性に目覚めたのが、いつだったのか?

 それはもはや、彼にすら思い出せないほどに昔のことだった。

 

 ただ、殺し、喰らい、生きるだけ。

 それだけしかない空虚な生き様に彩りが加わった気がして、彼は知性に磨きをかけた。

 狡猾にして、残虐なる猿の王。

 彼はそう呼ばれるようになっても何か満たされないものを感じていた。

 それが何なのか、分からないまま時が過ぎ、そして、彼は出会った。


 どこまでも闇のように昏く、深く、底知れないモノは彼に呼びかけてきた。


「余とともにこの世にわざわいをもたらせ。お前の返答は是も非もない。是しかないのだ」


 圧倒的な力を見せられた。

 ただ、そこにそのモノがいるだけで恐ろしくて仕方がなかった。

 震えながら、頷くだけの彼にそのモノは意外な言葉を投げかける。


「余はお主の知恵を高く買っておる。お前に名をやろう。サンジュである」

「ははっー。ありがたき幸せにござりまする」


 彼――サンジュは泣いていた。

 己の力を認めてくれる。

 己の知性を評価してくれるのなら、何者であろうと構うまい。

 恐ろしくて、逃げ出したくなる恐怖よりもただ、そのことが嬉しかったのだ。


 サンジュとなった彼が仕えた主は混沌から、生まれた原初の『悪』の一つだった。

 後にアカ・マナフと呼ばれる『黒の王』は狡猾なことでも知られている。

 自らが直接、手を下すことを好まない。

 ただ人心を煽り、争いにより疲弊していく世界を見て、愉悦を感じるのがアカ・マナフである。

 質が悪いにも程があるが、混沌に属するモノは多かれ少なかれ、このような傾向を持っていた。

 そして、手駒として目を付けたのがサンジュという猿の魔物であり、野望に身を焦がす男――エンディア王ノエルだったのだ。


 心の隙に付けこみ、ノエルの体を乗っ取ったアカ・マナフはサンジュとともに新たなゲームを開始した。

 国盗りという名の単なる余興である。

 混沌である彼にとって、人の命は単なるコマにしか見えていない。

 戦乱の世を愉しむノエルはまず、目の上の瘤である聖女となるセラフィナを罠にかけ、人間の手で始末させることに成功した。

 ところが光の戦士であるモデストによって、時を巻き戻されるというイレギュラーが発生した。


 聖女を始末し、でくの坊と化したモデストを排除すれば、ゲームセット。

 そう考えていたノエルはほぞを噛むが、巻き戻った時を動かす力はさすがにない。

 ならば、また同じように全てを滅ぼすまで。


 かくして、巻き戻った今世でもノエルは動き出す。

 全てを混沌に帰す。

 混沌の王に捧げることこそ、我が喜びと思って止まないノエルは腹心の部下であるサンジュをラピドゥフルに送り込んだ。


 それだけではなく、暗殺者としてスキア(タマラ)も送り出す二段構えの構成に失敗はありえないとさえ、考えていた。

 実際、途中までは計画通りに動いていた。

 害のない商人を装い、ラピドゥフルに潜入したサンジュはうまくやっていた。


 ユニペロ・ピヌス・デースペルという貴族を利用して、前世とは違う行動を取るイレギュラーな存在――セラフィナを罠にかけた。

 かつて、サンジュはユニペロに仕えていたことがある。

 人の庇護欲を掻き立てる無力な農民を装い、巧妙に近づいたのだ。

 そこからはお人好しの人誑しを演じ、利用するだけしてから、白々しくユニペロの前から姿を消した。


 ユニペロは生来のお人好しだったらしく、農民であったが為にサンジュが自ら身を引いたと考える男だった。

 またもサンジュに騙されたユニペロの口利きでセラフィナに憎しみの心を掻き立てる魔道具を売りつけることに成功した。


 サンジュの策は成ったが、セラフィナを闇の聖女として誕生させることに失敗した。

 タマラが土壇場で裏切り、セラフィナに魔封じの指輪を贈っていたこと。

 モデストとセラフィナの間に生まれた絆が育っていたこと。

 特に魔封じの指輪を製作したのがこともあろうにニクス・アンプルスアゲルその人だったこともノエルらにとって、誤算だった。

 ノエルとサンジュが考えつかなかった非常にイレギュラーな要因が重なり、失敗に終わったのだ。


 ノエルは役に立たない者を嫌う。

 アンプルスアゲルの暗殺の失敗と風の聖女セラフィナへの計略の失敗。

 この痛手は大きかったがサンジュはまだ、利用価値のある使える者であると判断され、許された。


 サンジュは第二の策として、再び、ユニペロを利用することを思いつく。

 これまでの策は直接、ターゲットに働きかけることで失敗していた。

 間接的な手段を用いる策へと思い切った舵取りをしたのだ。


 ユニペロを介して、民衆に細やかでありながらも強い毒を蒔いた。

 それが存在しない架空の唯一神を崇める宗教である。

 いずれ救いの時が訪れ、神を信じる者は救われる。

 神を崇めよ。

 神は言っている。

 全ての者は等しき者なり、と。

 この毒は非常に効いた。


 唯一教はやがて、サンジュが思っていた以上に大きな勢力となった。

 ここまでは彼の思惑通りである。

 唯一教の指導の下に光の戦士であるモデストと風の聖女であるセナがいるトリフルーメで大規模な反乱を起こす。

 うまくいけば、自らの手を汚すことなく、人間の手により人間は自らの希望を消してくれるだろう。

 もし、しくじってもトリフルーメは痛手を負うことは間違いない。


 だが、事はサンジュの思ったように運ばなかった。

 唯一教による反乱は起きたもののあっという間に鎮圧されてしまったのだ。


「終わったな。ああ。終わった……」


 サンジュはそれで全てを悟っていた。

 ノエルは決して、自分を許さないだろう。

 二度目はないのだ。

 しかし、彼に逃げ場はない。

 どこに逃げようとも救いなどありはしない。


 サンジュは知らなかった。

 死を待つ先であるエンディアに主がもういないということを。

 ノエル――アカ・マナフはもう一人の光の戦士であるミカエル・クラロソフィアによって、既にエンディアを離れていたことを彼は知らない。

 主との繋がりが断たれ、元の単なる猿の魔物へと戻りつつあることにも気付かず、サンジュは死出の旅を急ぐ。

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