第7話 昼休みの教室
「本郷さん」
昼休み、一人で昼食を終えて、課題を早めに片付けてしまおうと数学のワークを進めていると、突然声を掛けられた。
「はい」
反射的に返事をして声のほうを向くと、クラスメイトの岩本さんだった。
「邪魔してごめんね。今日の放課後、職員室まで来てほしいって、中野先生が」
中野先生とは、吹奏楽部の顧問だ。
「分かった、ありがとう」
岩本さんはまだ何か言いたげだった。
「本郷さん、吹奏楽部なんだ?」
「うん。ちょっと迷ってて、つい最近入部届出したんだ」
会話が続きそうな気配に、私はそっとワークを閉じる。
「そうだったんだ!私も吹奏楽部で、ホルンやってるんだ。よろしくね」
わずかに岩本さんのテンションが上がった。そういえば、同じクラスの部員のことは全然知らなかった。
「こちらこそ。岩本さんはいつから楽器やってるの?」
「中学からだよ。中学でも、ホルンやってた。あ、中学はここのじゃなくて、公立なんだけど」
私は小学校の卒業と同時に父の仕事の都合で近くに引っ越すことが決まっていて、どうせ知り合いがいないのならとこの学校の中等部を受験していた。クラスの半分以上は高校からの人たちだが、私が内部生だと知っての言い回しなのだろうか。
「本郷さんは楽器何?」
岩本さんは私の前の席に座りながら訪ねた。
「まだ決まってないんだけど、たぶんトランペットかな。楽器、初めてなんだよね」
「え!そうなんだ。じゃあトランペットだとコンクール難しいのかな」
「コンクール?」
「夏休みにね、コンクールがあるんだけど、出られる人数が決まってるからオーディションするんだって。来週の予定って聞いてるけど」
コンクールもオーディションも初耳だった。しかし岩本さんの言い方からすると、私は出なくても済みそうだ。
「オーディションは知らなかったけど、まだ入ったばっかりだし無理かな。もしかしたら呼ばれたのはそのあたりの話かも」
吹奏楽部に入ると決めたものの、大勢で何かをするということにまだためらいがあった。その選出方法がオーディションともなれば責任は重大だ。
「中学校からやってるなら、岩本さんはコンクール出られそうだね。応援してるね」
「ありがとう。ホルンは人数的に可能性がありそうだから、頑張る」
予鈴のチャイムが鳴った。岩本さんが席を立ちながら言う。
「ねえ、ほのかって呼んで。今度一緒に練習しようね」
じゃあ結で、と返す間もなく、岩本さんは小さく手を振って自分の席に戻ってしまった。
2階の渡り廊下を歩く。突き当たりの1号棟に職員室がある。各教科ごとに教員室もあるが、どちらにいることが多いかはその先生によるらしい。
コンコン、と軽く戸をノックして、ガラガラと引き戸を開ける。
「失礼します、1Aの本郷結です。中野先生いらっしゃいますか」
そういえば中野先生の席がどこなのか知らないなと思いながら、職員室を見回す。向かい合わせに並べられたデスクの列が3列。一番手前の列の奥のほうで、女性の先生が立ち上がった。30前後くらいの比較的若い先生だ。
「本郷さん」
中野先生は私が気づいていることを確認するかのように小さく手を振った。私は職員室の壁に沿って左へ、先生のデスクを目指して歩く。ホームルームが終わったばかりだからか、職員室にはまだ人は少なかった。
「人づてで呼び出してごめんね。吹奏楽部のことでお話ししたくて。ちょっとした説明だと思って、気軽に聞いてくれる?」
先生は私がたどり着くまで立ったまま待っていて、話しながら奥のエリアを手で指示して私を促した。職員室の一部には小さな丸いテーブルと椅子がいくつか並べられていて、カフェのように座って話が出来るようになっているところがあった。
「分かりました」
先生の後に続くようにそのエリアへと進む。先生は左から二つ目のテーブルの奥の椅子に座り、座って、と優しく言った。
「本郷さんは、中等部からだっけ?」
「そうです」
「部活は何かやってたの?」
「生徒会で書記をやってました」
部活は強制ではないけれど入っている人がほとんどで、帰宅部だと行事の係を任されたりしてしまうので、委員会と部活への所属を両方クリアできる生徒会本部はとても良かった。
「生徒会か」
中野先生は少し意外そうな顔をした。
「吹奏楽部に入ろうと思ったきっかけが何かあったの?何となく、でも構わないんだけどね」
「多田先輩に誘われました」
「多田くんに」
「あと、姉のトランペットを、吹けるようになりたくて」
これは言おうか迷ったが、いずれ避けられない話題だろうし、どうせなら自分から出してしまおうと思った。
「そうだったんだね」
中野先生はそれまでと変わらない穏やかな声で答えた。同情も憐れみも感じない温度だったが、わずかに返答に迷っているようだった。
「人数的にトランペットで大丈夫だから、ぜひトランペットをやってください」
「ありがとうございます」
「楽器は初めてって感じなのかな?」
「少し前からちょっと触るくらいはしてたんですけど、詳しいこととか、楽譜とかは全く分かりません」
先生は小さく頷いた。
「じゃあ、一応音は出せるけどって感じかな?」
「そんな感じです」
「分かりました。毎年初心者も少なくないし、いつから始めても全然遅くないから、先輩とかにいっぱい聞いて教えてもらうといいよ」
はい、と答えながら頷いた。
「コンクールの話は聞いたことあるかな?」
「岩本さんから少しだけ」
「そっか。吹奏楽部は夏のコンクールに出るんだけど、人数の関係で毎年オーディションをしていて、それがもう来週になってるのね」
私は黙ったまま頷く。
「トランペットとかは人数が多いからどうしても出られない人が出てきてしまう。それでも、オーディションには参加してもらいたくて」
先生は私の目を見ながら続けた。
「毎年、初心者で始めた1年生にもオーディションには全員参加してもらっていてね。本郷さんは特に準備期間が短いから大変だとは思うんだけど、出来るところまででいいから聞かせてほしい。大丈夫そうかな」
「正直、まだ始めたばかりで、部にとって大事なコンクールに出たいという気持ちは持てないんですけど、そんなでもいいんでしょうか」
そんな気持ちなら受けなくていい、そう思われているのではないかと思った。
「うちはちょっと特殊でね」
先生は微笑んだ。
「全国大会に繋がってない部門に出てるの」
「そうなんですか」
部門という概念があることすら知らなかった。
「強い吹奏楽じゃなくて、楽しい吹奏楽にしようっていうモットーでやっていて、コンクールの代わりにコンサートとかの演奏機会を多めにとることにしていてね。せっかく音楽や楽器が好きで、部活動としてやっているんだから、なるべくみんなで演奏できるようにって。だから、コンクールに出ることが目標じゃなくても、演奏できるようになりたいっていう気持ちがあれば大丈夫」
先生は、もうトランペット好きでしょ?といたずらっぽく続けた。
「本郷さんがどんな音を出す人なのか、それだけ見せてくれたらいいよ」
厳しい顧問だったら、私はここで辞めていたかもしれない。
「分かりました。短い間ですけど、やってみます」
「楽しみにしてるね。あと詳しいことは部の人に聞いてみてくれる?トランペットには瀬谷さんもいるし、楽譜とかも用意してくれてると思うから」
「はい」
「他に何か気になることとかある?」
「大丈夫です」
「何かあればいつでも相談してね。じゃあ、部活行ってらっしゃい」
先生は言い終わるタイミングで席を立った。私も慌てて立ち上がる。
「そこの扉から出ると良いよ」
先生は近くにあった職員室の奥側の戸を指さした。
「ありがとうございます」
軽く頭を下げて、そのままその戸へ向かう。
「失礼しました」
お決まりのセリフを言って、職員室を後にした。
極彩色のトランペット 南 陽花 @hydrangea11
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