第6話 手の中のトランペット
帰り道、先輩は自転車に乗らず、手押しで並んで歩いてくれていた。
「吹奏楽部、どうだった?」
「やっぱり集団は苦手ですけど、思ってたより怖くないかもって、思います」
「入ってもいいかもって思った?」
様子を窺うように顔を覗き込まれる。
「うーん、考えてもいいかもって思いました」
「そっかぁ、良かった」
先輩は安堵したように笑った。私は慌てて言う。
「まだ入るって決めてないですよ?」
「うん、分かってる。だけど、強引に誘っちゃったかなって思ってたから、少しでもプラスの気持ちになってくれていたなら本当に良かった」
言葉の選びかたとまっすぐな笑顔から、本当に良い人なんだろうなと思う。
「見学に来たのは、私が自分で決めた、私自身の意思です。そんなに気にしないでください」
「ありがとう。もしまた、吹奏楽部に入りたいって結ちゃんの意思が固まったら、いつでも待ってるね」
先輩がいたずらっぽく笑う。この人には敵わないのだろうと悟った。戦うつもりなど、初めから全くないけれど。
「ありがとうございます。どちらに決めても、先輩には報告させてください」
いつの間にか、家のすぐ近くの河川敷まで来ていた。私はここで曲がりたい。
「あ、私の家、もう直ぐ近くなのでここまでで大丈夫です。自転車あるのにわざわざありがとうございました」
「そっか、あっちなんだね。気を付けて帰ってね。お疲れさま」
先輩は私につられて立ち止まり、そのまま自転車に跨った。
「お疲れさまです」
またねと手を振りながら走り出す先輩の背中を見送った。
家に帰り、私はベッドに腰かけて、姉のハードケースを開いた。
黒いケースに横たわる、黄金色のトランペット。
その輝きに惹かれるように、そっと本体を撫でた。
『高校生になったら、一緒に吹奏楽やろうよ!』
そんな姉の声が蘇る。
姉のいた場所。姉の望んだ道。姉の遺したもの。
そして、今の私に唯一色を与えてくれる存在。
ケースをそのままベッドの上に置いて、バッグを開いた。1か月くらいずっとクリアファイルの中に入れっぱなしだったプリントを取り出す。まっさらな入部届は、折り目ひとつついていなかった。
「お母さん」
入部届を持ったまま立ち上がり、キッチンにいる母を呼びながら部屋を出た。
「どうしたの?」
洗い物の途中だったらしい母は泡だらけの手を止めて、驚いた様子で私を見つめた。
「私、吹奏楽部入ろうと思う」
「大丈夫なの?」
第一声で母はそう言った。手に付いた泡を流し、体ごと私に向けて続けた。
「結は、結のやりたいことをやっていいんだからね?凜のためじゃなくていいんだよ。それは、本当に結がやりたいこと?」
「うん」
絶対に姉のためではないのかと問われれば、否定することは出来ないけれど、これは、間違いなく私の意思だ。
「今日、見学に行ってきたの。先輩も優しかったし、頑張れるかもって思った」
「そう。それなら頑張って。でも無理はしないでね」
私は2、3度無言で頷いて、部屋に戻った。母も洗い物を再開したようだった。
次の日の放課後、私は顧問を探しに職員室へ向かった。そういえば高校生になってから職員室に入るのは初めてだなと思いながら戸をノックしようとしたときだった。
「結ちゃん?」
「多田先輩」
右から来た先輩の姿と声に驚いて、ノックをしようと構えた手が止まる。
「名前、憶えてくれてたんだね」
先輩はいつものように微笑んだ。そして目線は私の手元の紙に移る。
「それ、もしかして……入部届?」
そんな必要は全くないのに、つい少し紙を隠してしまう。
「そう、です。吹奏楽部、入ろうと思いまして」
「本当に?嬉しいよ、ありがとう!あ、今日顧問出張でいないから、部長に渡すと良いよ」
「そうなんですか。ありがとうございます。これからよろしくお願いします」
こちらこそと返す先輩は、相変わらずの笑顔だった。
「俺、鍵取って行くから、荷物持って音楽室においでよ」
「分かりました。ありがとうございます」
「じゃ、またあとでね」
先輩は私に向かって軽く手を上げて、その手でそのまま職員室の戸を叩いた。もう慣れているのだろう、流れるように中へと入っていく。その姿が消えきるより前に、私は教室がある棟へと続く渡り廊下へと歩きだしていた。
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