第2話 晴れの日の河川敷

 時は流れていくもので、また暖かな春が巡ってきた。

 私は無事高校生になり、姉と同じ制服を着て、姉と同じ教室に通っている。

 進級試験や期末テストに追われる義務のような日常に浸り、卒業式や入学式のような非日常に流されるままここまで来たけれど、突然やってきた息継ぎのタイミングに何をしたらいいか分からなくなっている私がいた。

 自室で一人、ただぼーっと窓の外を眺めるだけの休日。

『結も来る?』

 あの河川敷に行けば、姉に会えるだろうか。ただの思いつきだった。

 おもむろに立ち上がり、部屋の片隅に置いてあったハードケースを手に取る。わずかにかぶった埃を払い、ネームタグを指でそっとなぞった。

 行く。

 私はそのままケースを抱えて、河川敷を目指して家を出た。


 久々に踏んだ河川敷は、青い草のにおいがした。少し暑いくらいの日差しに照らされながら、芝生の上に腰を下ろす。

 足を伸ばして膝の上にケースを乗せる。いつも姉がしていたように、かちゃりとロックを外し、そっとケースの蓋を持ち上げる。

 そこには金色に輝くトランペットが横たわっていた。

 モノクロの世界の中で、それだけが、まぶしいくらいに鮮やかに輝いていた。

 何かに惹かれるように、その本体に手を伸ばす。マウスピースの付け方はこうだっただろうか。右の小指はここに引っ掛けて、左手はここに指を入れて……姉の声を辿ってそれっぽく構えてみた。

 ゆっくり息を吸って、おそるおそる息を吹き込んでみる。少し掠れたけれど、音が鳴った。

 そこから私はひたすらトランペットを吹いた。姉の音はどんなだっただろう。教わった音階は確かこうだった。姉が軽々と出していた高い音はこんなに難しいのか。

 結局どれくらいここに座っていただろう。私は唐突に空腹を思い出した。今日はもう帰ろう。そしてまた、ここにトランペットを吹きに来よう。そんなことを考えながら、金色のボディを元のようにケースに横たえた。

 視界からまた、色が消えた。



 世間がゴールデンウィークで賑わい始めても、私には何もやることもやりたいこともなくて、前のようにまた河川敷にやってきていた。

 私にとってトランペットといえば姉が吹く「遠き山に日は落ちて」だったので、この曲を吹けるようになりたいと思った。

 いつも隣で聴き、指さばきも見ていたはずの曲。一音ずつ探しだしては拾い集めるように、メロディーを紡いでいく。

 やっと出来た最初の1フレーズを通して吹いてみた。そう、このメロディーだ。

「ねえ、その曲!」

 突然頭の上から降ってきたその声に驚いて、声の主を探した。うちの高校のブレザーを着た男子生徒が、自転車に跨ったままこちらを見下ろしていた。雰囲気からして先輩かなと思ったが、全く心当たりがない。

「もしかして、凜、えっと……本郷凜の妹さん?」

 流れるように自転車から降りてその場に停め、こちらに向かって降りてくる。私は思わずその場に立ち上がっていた。

「そう、ですけど……」

 私は困惑を隠せないままそう答えた。自然に会話が出来る距離感まで近づいてきた先輩の胸元には、ⅢBのクラス章が付いていた。なるほど、姉と同学年か。

「あぁ、急にごめんね。吹奏楽部の多田優也です。凜とは吹部で一緒で、たまに妹の話してたから、もしかしてって思って。それにさっきの『家路』、凜がよく吹いてた。妹さんもトランペットやってたんだね」

「本郷結です、初めまして」

 軽い会釈と共に挨拶をし、言葉を続ける。

「これは姉のトランペットで、私はやってないんですけど」

 胸元のトランペットをぎゅっと握った。本当は「家路」じゃなくて「遠き山に日は落ちて」と言ってほしかったけれど、それは言わないことにする。

「やってないの!?そんなに吹けるのに?」

 こんなに驚かれるとは思わなかった。私は首を振って答える。

「姉に教えてもらっただけです」

「たしかに凜が自慢したくなるわけだ。『妹は天才だ』って。吹奏楽部、入ったらいいのに」

 私はトランペットが吹きたいわけではなかったし、申し訳ないけど吹奏楽部に興味もなかった。

「姉は大げさに褒めすぎなんですよね。すみません、私、部活に入るつもりないんです」

 自分が集団に向いてないこともよく分かっていた。それに、今の状況では部活動に打ち込める気もしない。

「そっか」

 残念そうな顔をしていたけれど、意外とあっさりしていた。その様子が姉によく似ていて、胸がきゅっとなった。

「まあまだ高校生活1か月しか経ってないし、もしちょっとでも興味あったらいつでも放課後に覗きにおいでよ。見学だけでも全然構わないから。そのときは俺に声掛けて。俺副部長だから、見つからなかったら部員に聞いてもらっても大丈夫だよ」

「ありがとうございます」

 はっきりと勧誘なのに、不思議と嫌な気がしなかった。来なくても気にしない、あくまでも選択権はそちらにある、そんな話し方だった。気まぐれに姉が訊く『結も行く?』と同じ温度を感じた。

「邪魔してごめんね、俺、帰るね」

 軽く手を振って自転車のほうへと戻りながら、「またね」と彼は言った。

 私は胸元に鮮やかなトランペットを握ったまま軽く頭を下げ、その姿を見送った。

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