第4話 高梨課長は猫が飼いたい(4)

「ほ、本日は休日のところ来ていただき、あ、ありがとうございます」


 目線よりわずかに高い間仕切りの向こうで、高梨課長の緊張した声が響いてくる。

 高梨課長から間仕切りを挟んで隣の席に陣取ったぼくは、アイスコーヒーの入ったグラスにストローを刺しこんだ。


 ぼくはガムシロップは使わない主義だ。アイスコーヒー特有の苦みを楽しみつつも耳をそばだてる。


 なぜぼくが休日に会社近くの喫茶店、カメダ珈琲店のボックス席に陣取っているかというと、高梨課長が心配でついてきたのである。無論、いざとなればLIMEでメッセージを送ってサポートするつもりである。


 なにしろ、先日があの有様だったから、ぼくから提案したのだ。高梨課長はぼくの提案に渋い顔をしたが、ダメとは言わなかった。

 口に出しては言わなかったが、先日の一件がやはりこたえているのだろうと思った。今回の用事は単にクリーニング代金を受け取るだけなので、そこまでのポカはやらかさないとは思うが。


 普段仕事のミスをフォローしてもらっている手前、その恩返しをしたいというのもあるが。どうしてもこの高梨課長のことはお節介を焼きたくなってしまう。


――娘のことが心配になる男親ってのはこういう気持ちなのかなあ……上司を勝手に娘扱いするのもなんだけど。


 そんなことを考えながら、なんとはなしに視線を店内に向けると向かいのボックス席に一人で座っている女性客が。


 どこかで見た顔だなと思ったら、うちのおくさんですよ。

 しかも、つい目が合ってしまう。

 仕方ないので手を振ってみたら、向こうも苦笑して手を振り返してきた。

 道理で、今日はいつの間にか出かけていると思った。これが終わったら合流するとしよう。


「いや、こ、こちらこそありがとうございます」


「え? いえいえ……こちら、先日のクリーニング代になります。こちらで足りるかどうか分かりませんが……」


 ギクシャクしたやりとりを、ぼくはハラハラ半分、微笑ましさ半分の割合で見守る。


「あの、それは結構なんです。そのかわりに、猫に好かれる方法を教えていただきたくて」


 テーブルの上に置かれた封筒を、丁寧に西川さんの方に返す。

 西川さんはそれを困惑した顔で受け取る。


「ね、猫、お好きなんですか?」


「え、ええ。猫は好きなんですけど……その怖がられてしまって……」


 困ったような顔で視線をさまよわせていた西川さんはしばらく思案したあげく、話し始める。


「基本的なことなんですが。猫と人間というのはだいぶ身長差がありますよね。この高さの違いに猫は警戒心を抱くんです。だから、接する時はなるべく背を低くして、指だけを近づけるようにしてください」


 西川さんの言うことを、高梨課長は取り出したメモ帳に書き留めていく。

仕事の時もそうだけれど、この人はメモ魔のきらいがある。


「それから、目を合わせるのはダメですよ。目線はなるべく外してください」


「え、目を合わせてはいけないんですか?」


「目を合わせるのは動物にとって威嚇のようなものですからね。じっと見つめられていると、気の弱い子は逃げてしまいますから」


 先ほどまでのギクシャクな感じが嘘のように、西川さんは生き生きと語る。

 うん、分かる。オタクが得意のジャンルのことになると、つい早口で解説してしまうアレに近いな。


「猫も動物、ということなんでしょうね」


「ええ、野生動物なら目を合わせるのは狩りの合図ですからね。室内飼いの猫たちも習性自体は同じですから。それから、タバコや香水とかのキツい香りも嫌われます。最近はやりの芳香柔軟剤なんかも避けた方がいいですね」


「西川さんは本当に詳しいんですね。私は猫が好きなだけで、そこまで詳しくはなくて。もっと勉強しないとダメですね」


 そう言って高梨課長は力なく笑う。


「いえ、そんなことはありません。私もこのボランティアをするようになってはじめて知ったことばかりですから。大切なのは、命を預かるという責任感だと思いますよ」


「ありがとうございます。でも猫を飼う前に、もっと色々知っておきたいです。それからでないといけない気がします」


 高梨課長の顔はこれまでの自信なさげな顔から、お仕事モードの時に似たキリッとした顔に戻っていた。なにか心境の変化があったのだろうか。


「じゃあ、猫を飼う前に実地訓練をしてみますか?」


「実地訓練?」


「猫のことを知るには、本での勉強もいいですけど、やはり実際に触れてみるのが一番ですから。どうですか?」


「……それ、よろしくお願いいたします」


 最初少し迷うそぶりを見せた高梨課長の顔には、静かな決意が浮かんでいた。

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