第2話 高梨課長は猫が飼いたい(2)

第2話 


「それは……なんというか災難でしたね。高梨さん」


 ジャージ姿でしょんぼりしている高梨課長に対して、おくさんは気の毒そうに声をかけた。


「こちらこそすまない。後輩君ばかりか、その奥さんまで面倒をかけるとは」


「いえいえ、お気になさらず。うちの宿六……旦那さまがいつもご面倒ばかりかけていますから」


 おくさんは外行きモードで如才なく、笑顔で答えを返す。


「スーツは私がお預かりしてクリーニングに出しておきますから。あいにく、私も着替えの持ち合わせはないので……」


「何から何まで済まない。この埋め合わせは必ずさせていただく」


 高梨課長は深々と頭を下げる


「この度は大変なご迷惑を。クリーニング代金は必ずお支払いしますので。こちら仕

事用ですが、私の名刺になります。料金が分かりましたら、お電話かメールをください」

 西川課長は、ポケットから名刺を取り出す。


「いや、こちらこそ申し訳ない。私も名刺を」


 これはバッグの中に入っていてノーダメージだった名刺入れから、名刺を出す。

 ジャージ姿の高梨課長と、チェックのシャツ姿の西川さんが名刺を交換している姿は、なんとも奇妙なものだった。


「それでは、私はまだ会場の後片付けがありますので、これで失礼します」


 西川さんはなんとも申し訳なさそうに、頭を何度も下げるとほかのスタッフが集まっているところへ帰っていった。


「あの、高梨課長さんでしたっけ。この後、うちに来ませんか?」


「いや、後輩君にこれ以上迷惑は」


「うち、ここからすぐなんですよ。高梨課長のマンション、たしかここから結構かかりますよね。ジャージで移動ってのもしんどいでしょうし」


「……分かった。君のご厚意に甘えよう」


 高梨課長は疲れ切った顔で微笑んだ。


          ◆


 高梨課長が風呂に入っている間、ぼくはちょっとした針のむしろだった。


「課長さんって、女性だったんだね?」


 おくさんの冷たい声に、ぼくは背中に冷や汗を感じながらこくりと頷く。

 ちなみにおくさんは柔らかい笑顔を浮かべている。


「笑うという行為は本来攻撃的なもの云々」というマンガの台詞を思い出しながら、ぼくは頭をフル回転させながら言い訳をひねり出そうとする。


 いや、そもそもぼくにやましいところは一つとしてない、ないのだ。

 今日のぼくは、日頃のお礼に上司のお願いに時間を割いて付き合ってあげただけであって。だけれども、往々にしてその正論というやつは夫婦の間では無力だったりするのだ。


「うん、まあ……」


 ぼくはどう説明をしたものか、内心で頭を抱える。


「勘違いしてもらうと困るのだけど。私はあなたを責めている訳じゃあないの。ただ、夫婦の中に隠しごとは困るというか、ね?」


 笑顔でぼくの手を握ってくるおくさん。

 その手は柔らかくて気持ちいいが……顔は笑っていても目が笑っていない。怖いです、おくさん。


「うんまあ、言ってなかったかな。ごめん、早めに言っておくべきだった」


  多分、理屈の上では別に上司が綺麗な女性だからといって、自分のおくさんに報告する義務はないかもしれない。

 けれども、夫婦円満のコツは意地をはらずに相手に合わせることだ。別にぼくがチキンな訳ではないので、念のため。


「それで、今日は何で一緒に行ってたの?」


「高梨課長には普段からお世話になってるからさ。そのお返しであって、特に深い意味はないからね」


「どうかしら。あの人美人だし、背は高いしスタイルもいいわよね」


 そう言ってほっぺを膨らましているおくさんはとてもかわいいのだけれど。

 そんなことを言うと、真面目に聞いていないと怒られそうだから黙っていよう。


「ぼくは、きみだけしか見てないから。大丈夫だよ」


「口だけなら何とでも言えるわ」


「じゃあ証明してくれる?」


 ぼくは一瞬、そろそろ高梨課長が風呂から上がってくるのじゃないかなと思ったが、そんな事を言い出せそうな雰囲気ではない。


 ええいままよ、とぼくはおくさんの顎の先を軽くつかむと唇を引き寄せる。

 小鳥がついばむような軽いキスのあと、ぼくはさらに舌をおくさんの口中にねじこんでいく。いつ味わってもおくさんとのキスは、身体が震えるような快感だけがある。


 交わっているときよりも、二人が一体になるような感じがして、ぼくは好きだった。


――やばいな、このままだとちょっと抑えられなくなりそう。


 下半身の一部が自己主張し始めているのに気づき、ぼくは軽い危機感を覚えつつまあいいかなどと思っている。我ながらダメ人間だと思っている。


「後輩君、すまない。着替えがないんだが……え?」


 そんな言葉と、派手な音にびっくりとしたぼくは、リビングルームの入り口をぼんやりと見やる。

 そこには、バスタオル一枚でリビングルームに尻餅をつくような形で転倒している(ほぼ裸の)高梨課長がいた。


――なんでこの人は、こんなあられもない格好で転んでいるんだ?


 あまりにも突拍子もないと、脳の回路はエロスよりも疑問の方が上回るらしい。

 後で考えて見ると、

 ボケッとその姿を眺めていたぼくの頭を、おくさんがすかさずひっぱたく。

 うーん、ついさっきまでいい雰囲気だったのに。


 ぼくは痛みをこらえながらも恨めしい顔で高梨課長を睨もうとしたが、おくさんに強引に向こうを向かされた。

 うんまあ、これは仕方がない。


「すいません、うっかり着替えを置いておくのを忘れてしまいました」


 おくさんが課長に向けて、申し訳なさそうに頭を下げる。

 会場で貸してもらったジャージはおくさんが洗濯機にかけたのだが、その代わりの着替えを脱衣場に置いておくのを忘れていたらしい。

 ちなみに今の高梨課長は、ぼくがトレーニングの時に着ているデニム生地のフード付きパーカーと、ジョガーパンツのセットアップだ。


 おくさんが自分の服を貸そうと思ったらしいけど、さすがに身長が二十センチ以上違うので無理だったらしい。

ぼくと高梨課長の身長は似通っているから、パーカーとパンツはお誂え向きに彼女の体格に似合っていた。


「いえ、私の方こそ配慮が足りませんでした。お二人はご夫婦ですから、ああいうのも普通ですよね」


 そう言う高梨課長の顔は真っ赤だった。

 どうにも先ほどの場面は高梨課長にとってはいささか刺激の強い場面であったらしい。

 意外だ。高梨課長はたしかに「高嶺の花」といった印象だが。


「ええっと、まあその……」


 おくさんはなんとも気まずい顔でぼくの脇を小突く。

 話題を変えろ、ということらしい。


「そういえば、さっき西川さんから電話がありましたよ。今度の日曜日、クリーニング代金を渡したいという事です」


「ありがとう。何から何まですまない」


 高梨課長は深々と頭を下げる。

 この人はどんな時でも精一杯で真面目過ぎるなと思った。おそらく、いい意味での力の抜き方を知らないのだろう。


 その感想は、おそらくうちのおくさんも同感だったらしく、意味ありげに瞳でアイコンタクトをとってくる。

 最初は警戒していた風もあったのだが、どうやら高梨課長のことを気に入ったのかもしれない。


「いいですって、今回のは事故、アクシデントですから。それに、高梨課長には普段仕事で散々助けていただいてますからね」


「という訳で、お気になさらず。こういう時はお互い様ですから、助け合いましょう。それより、そろそろ夕飯時ですから一緒に食べていきませんか? ……作るのはうちの旦那さまですけど」


その言葉にぼくは苦笑する。

 もちろん食材の買い置きは十分にあるから、課長一人ぶんくらいは問題ないのだけれど。


「いや、そういう訳にも……」


「職場でのうちの旦那さまの様子が知りたいんです。お話していただくお礼として」

 高梨課長は困ったような顔をしたが、ついで苦笑いになる。


「分かりました。部下の様子をご家族に報告するのも、上司の務めですね。もちろん企業秘密は別ですけど」


 少しばかり冗談めかして、高梨課長は笑って見せた。

 肩の力を抜いた笑顔にぼくは少しばかり驚きを覚えた。

 その笑顔なら、猫たちだって怯えずに近寄ってくるのじゃないかと思った。

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