Season2

第01話 高梨課長は猫が飼いたい(1)

「相談というのは…だ。今度また、猫の譲渡会につきあってくれないか」 

コーヒーカップを皿においた高梨課長は、深刻そうな顔でそう言った。

 高梨課長はぼくの所属する第三開発課の課長、つまり直属の上司だ。

 彼女は、我が社でも一二を争う美人として知られている。

 しかし、仕事に対する真剣さと滅多に笑顔を見せない強面なところが、男性社員に怖がられている。

 かく言うぼくも、新入社員当時は高梨課長の周りにいると緊張感を強いられたものだ。

 まあ、その後ぼくはとある事件をきっかけに高梨課長の別の側面を知ることになるのだが…まあ、それは別の話だ。

「またですか…まあ、課長にはお世話になってますから、お付き合いしますけどね」

「すまないな。だが、私が猫を飼うには君の協力が是非とも必要なのだ。猫に好かれる君なら、私と猫との橋渡しをしてくれる…はずなのだ」

課長の顔は真剣そのものだ。

 ちなみに以前参加した動物保護団体主催の譲渡会で、ぼくは我が家の主となっている飼い猫『微力さん』と運命的な出会いを果たしている。

 まあその時ぼくは課長のお供でついていっただけなのだが。微力さんに『話しかけられ』、ついつい彼女の魅力に負けてお迎えをしてしまったのだ。

 一方、課長はというとその場に集まっていた保護猫のほぼすべてに、親の敵のような勢いで威嚇されてしまった。課長の顔がボランティアさんも思わず後ずさるほどの迫力に満ちていたせいだと思うのだが。

その時課長は猫のあまりの怯えようから、ついに保護猫の譲渡をすべてお断りされてしまったのである。

 なまじっか顔立ちが整っているせいで、真剣な顔をするほど猫や子どもが怯えてしまうのではないか、とぼくは思っている。

 その時、対照的にぼくが微力さんに一発で懐かれたのを、羨ましいのか恨めしいのか判然としない顔で見られたものだ。 

「いやまあ、あんまり期待されてもぼくはそんなにお力になれないと思うんですけどね」

課長の視線に、ぼくは苦笑いを浮かべるしかない。

「いや、いいんだ。私は動物ばかりか人間にまで避けられてばかりだからな…こうやって面と向かって仕事以外で話せるのも君くらいだ」

 自嘲の笑みを浮かべると、高梨課長は明後日の方を見ながらため息をつく。

 そんなことはない、と言いたかったけど仕事以外の事となると、高梨課長はとことんマイナス思考なのだ。

「分かりました。結果は保証できませんけどお付き合いさせていただきますよ」

 ぼくは内心でため息をつきながら承諾した。

 正直に言えば高梨課長が無事にお猫様をお迎え出来るとはあまり思えなかったのだが。


 保護猫の譲渡会会場は、コミュニティセンターの会議室だった。

 NYAFニャーフとかいうNPO団体と自治体の共同事業らしく、市の保健所が保護した猫を譲渡する会だ。

 猫の譲渡を希望する人は、ネットで事前申請した上で当日猫と対面して譲渡を希望するか決めることになる。基本的には事前申請の段階で安定して猫を飼うことが出来るかどうかは審査される。

 高梨課長の場合既にペットを飼えるマンションに住んでおり、安定した収入もあるからそちらの方は問題ないのだが…

「…やっぱりダメか…」

予想していた事態ではあるが、高梨課長は猫たちから恐れられていた。

 会場に着いた途端、緊張のあまり小刻みに震えているし、顔は親の敵を見るかのように強ばっている。

「課長、分かっているかと思いますが……あまり緊張すると、猫ちゃんたちも怖がりますよ」

「分かっている、分かってはいるのだが……」

――うん、これはダメだな。

 ぼくは思わず心の中でさじを投げ捨てようとして、寸でのところで思いとどまる。

――でもまあ、課長には微力さんに出会わせてくれた恩義があるし…

「まずはリラックス、リラックスですよ。笑顔、スマイルが大事です」

ぼく自身もできる限りの満面の笑みを浮かべて見せる。

「うん、後輩君。笑顔、笑顔だな」

なんとか顔を緩めようとした高梨課長の顔は見事に引きつっている。

 笑顔は笑顔なのだがデーモ○閣下の笑顔にしか見えない。

 この人笑顔下手過ぎだろ。

 課長が営業課に転属する日が来ないことを願うしかない。

「こんにちは、NYAFでボランティアをしています、西川です。今日は保護猫の譲渡会においで戴きありがとうございます」

譲渡会のボランティアスタッフの名札をつけた中年男性がにこやかに微笑みかけてくる。いかにも人が良く、猫にも好かれそうなタイプの男性だった。

 チェックのシャツにストーンウォッシュのジーンズといった服装で、あまり服装に気を遣わないタイプなのが親近感を覚える。

「ひょ、よろしくお願いいたします!」

油の切れたロボットのようなぎこちない動きで応じる課長に、西川さんは少し困り気味だった。だが、すぐに笑顔を取り戻す。

「このキジトラの子は、雑種で身体はいたって健康。生後六ヶ月、少しばかり臆病な性格ですが…抱っこしてみますか?」

「は、はひ。よろひくお願いしまふ」

 課長はまだ緊張が解けていないのか、カクカクした動きで猫を受け取る。

 キジトラの猫は、あきらかに怯えた表情を見せてはいるが、暴れ出す気配はない。

 おずおずとした手で猫を受け取った課長は、文字通りの猫なで声(のつもりのデスボイスにしか聞こえない声)を出す。

「大丈夫でちよー。怖くない、怖くない」

 受け取った猫を抱こうとした瞬間に、その悲劇は起こった。

 緊張に耐えきれなくなった猫が、滝のような黄金水を股間から放ったのである。

 そして、猫は盛大な放尿を済ませたあとは、地面に着地するやいなや、脱兎のように逃げていく。弾丸のように逃げていく猫は、思い切りスタッフに衝突しながらも脱走しようとした。残念ながら、手慣れたスタッフにあっという間に捕獲されたが。

 一方、至近距離だったために避けられなかった高梨課長は、顔からその黄金水をまともに浴びる羽目になっていた。

 仕事帰りだったために、課長が見るからに高そうなスーツを着てきていたのもマズかった。

 クリーニングに出せばある程度汚れは取れるかもしれないが、臭いまで取れるだろうか。

 猫の尿は臭いもキツいことが多いし……

 ちなみに、微力さんはトイレマナーがしっかりしているので、その辺あまり気にならないのだが。

「す、すいません!とんだ失礼を!高見ちゃん、タオルと着替え!何でもいいから!」

「わかりました!着替え、ジャージでいいならあります。サイズは合うかわかりませんけど」  

「すぐにお願い!」

 西川さんはほかのボランティアスタッフに指示を飛ばす。

「課長、とりあえずスーツの上着を脱いでください」

 放心状態でへたり込んでいる課長に、ぼくはようやく声をかける。

「……分かった、すまない。まさかこんな事になるとは」

「いいですって。こういう時は部下に頼ってくださいよ」

 西川さんが差し出してくれた何枚かのタオルのうちの一つを受け取り、少しでもシミになるのを防ぐためにスーツの表面をたたくように吸い取っていく。

 まあ気休めにしかならないかもだけど、やらないよりマシだろう。

「すいません、西川課長!緊急に確認していただく必要のある書類が……ってあれ?」

 そんな状況のところに、見覚えのある人物から話しかけられた……と思ったら、うちのおくさんだった。

「えーと、ねえ旦那さま。これ、今どんな状況なの?」

「いやまあ、話せば長くなるような、ならないような」

 ぼくはへたり込んでいる課長と、ひたすら頭を下げている西川さんを眺めながらあいまいに微笑むしかなかった。

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