第3話 ぼくとおくさんと例の映画の件
居間のカレンダーを見やりながら、ぼくはなんとなくそわそわしていた。
「明日、もう公開日かあ、長かったなぁ」
スマートフォンの『つぶったー』に目を戻すと、タイムラインは大作アニメ・シリーズ「チバンゲリオン」の完結編がようやく公開されるというニュースで持ちきりだった。
すでに「ネタバレ厳禁」だの、「ネット断ちでネタバレ回避」だのというつぶやきでお祭り騒ぎだ。
公開日の13日は月曜日だけど、なんとか会社の半休が取れた。
深夜のチケットの争奪戦にからくも勝利したし。
あとは会社で突発的なデスマーチでもなければ…うん、まあ大丈夫だろう。
不安になってきたので、あえて考えないようにする。
「ねぇ、もう寝なくて大丈夫?」
うちのおくさんにそう言われて、慌ててぼくは居間の掛け時計を見る。
もうこんな時間か…
「ありがとう。そろそろ寝る用意するよ」
「そう、私は先に寝るから」
彼女はそっけなくそう言うと二階へ上がっていく。
ちょっとおくさんの態度に違和感があった。
けれど、眠気のほうがそれに勝る。
ぼくはのびをすると、洗面所に歯を磨きにいく。
次の日も、うちのおくさんはどこかよそよしかった。
微力さんに話しかけてみても、ふつうの猫モードでスルーされるし。
その辺がちょっと気になったけど、ぼくの頭は映画の事でいっぱいだった。
幸い、この日の仕事は特段のトラブルもなく、ぼくは予定通りに映画館へと到着していた。
平日の昼間だというのに、映画館は人でごった返している。
早々にチケットを発券して、ロビーで待っている時間も至福の時間だ。
七年も待たされた作品だから、ぼくの気持ちも少しは分かってもらえるんじゃないだろうか。
いよいよ、予告編が何本か流れたあと、配給会社とアニメスタジオのロゴが流れる。
いよいよ本編がはじまった……
三時間近い上映時間だったけど、あっという間に終わった。
上映終了後に、その場から動きたくなくてしばらく座っていたくらいだった。
「いや、これは名作だわ。この感動、一刻も早く誰かと分かち合いたい」
ぼくはそんなことをひとりごちながら、ようやく立ち上がる。
「やっぱり、おくさんと一緒に見るべきだったかなあ」
うちのおくさんはアニメを見ないわけじゃないけど、さすがに劇場版映画三本で合計6時間以上ある前の作品を見てくれとは言いづらかったのだ。
とはいえ、やっぱりこれだけの映画を見た後は感想を話す仲間が欲しくなる。
今度頼んでみようかなあ。
そんなことを思いながら、ようやくのことで映画館をあとにしたのだった。
映画館を出た時にはまだ五時前だったので、スーパーで夕飯の買い物をして帰宅したらもう七時近くなっていた。
すぐに夕飯を作らないと、おくさんを待たせちゃうなと思いつつドアを開けると。
「チバンゲリオン」のヒロインのひとり、入江ナギサちゃんがいた。
いや、自分でも何を言っているのか分からないと思うが、ナギサちゃんがいたのだ。
正確にはナギサちゃんのコスプレをした、うちのおくさんがいた。
え、ちょっとこのプラグスーツ、本物みたいな質感なんだけど。
いやまあ、本物を見たことはないけどさ。
「ちょっと待って。どうしてこうなった」
冷静になるために、食材が入ったビニール袋を床に置く。
なんか妙な罪悪感を感じながら、ちらっと目をやると紅い髪の毛(多分ウィッグだろう)をツインテールに結んでいる。
ベタな表現だけど、映画のスクリーンから抜け出てきた、という感じだ。
衣装といい、ヘアメイクから化粧まで、すべてがクオリティー高い。
プロの仕事と言われても納得してしまうくらいだ。
「あの、その、これは職場の後輩の我那覇ちゃんが…ぜんぶやってくれたんだけど…」
-多分、褐色巨乳さんのことだな。彼女、なんというか『同類』の雰囲気あるし。
「コスプレしてくれるのはそりゃうれしいんだけど、急になんでまた」
「だって、あなたここ数日、ずっと上の空だったじゃない」
「あっ…ごめん」
ぼくは思い当たる節がありすぎて、あやまるほかない。
たしかに、あまりに楽しみすぎたせいかちょっと浮かれ過ぎていたとおもう。
これはちょっと夫失格かもしれないと反省する。
「それに、その…」
「それに?」
何か言いかけて真っ赤になるおくさん。
これだけ彼女が真っ赤になるのは、先日のバレンタインの時以来かもしれない。
「もう、言わせないでよ。だって、あなたナギサちゃん大好きじゃない。そりゃ、二次元の女の子だって分かってるけど、ちょっと妬ましいんんだもの」
そう言われてぼくはおもわず吹き出してしまう。
あー、やっぱりうちのおくさんは本当にかわいい。
「それでやることがコスプレって。可愛いが過ぎるでしょ」
ぼくはつとめて冷静にそう言いながら、クツを脱ぐと玄関にあがる。
そうしながらも、顔はにやにやが止まらない。
我ながらちょっと気持ちわるいと思う。
「それで、嬉しいの、嬉しくないの?」
あからさまにふくれっ面のおくさん。
そんな彼女の表情もすごくかわいい。
でも、ふとそんな彼女の反応も無理ないなぁと思う。
ぼくも、彼女が二次元のイケメンや、男性アイドルに夢中になってたら、絶対嫉妬するにきまってる。
そう考えると、なんか申し訳ない気もしてくる。
まあ、ナギサちゃんが好きなのは彼女と知り合う前からなんだけど。
「そりゃ嬉しいに決まってる。ただでさえかわいい君が、好きなヒロインのコスプレをしてくれてるんだよ。うれしくないはずがない」
ぼくはそう言って、彼女に微笑みかける。
「コスプレって、正直抵抗あったんだけど。私にとって、ナギサちゃんはある意味キューピッドだから」
ああ、そういえばおくさんとぼくが知り合ったのに、ナギサちゃんは微妙に関係してるんだよな。今の今まで、すっかり忘れてた。
まあ、長くなるからこの件はまた今度にしておくけども。
「うん、すごい嬉しい。我那覇さんには感謝しないとね」
心の中でクオリティー高いコスプレを完成させてくれた、褐色巨乳さん改め我那覇さんに合掌する。
うん、いつかお礼をしないといけないな。
「というわけで、行こうか」
「え、ちょっ!待って。目が怖いんだけど?」
ぼくは、おくさんを抱き締めると、そのまま抱え上げる。
いわゆるお姫さま抱っこというやつだ。
実はちょっと大丈夫かなと思ったけど、案外彼女は軽いし最近筋トレしてるからなんとかなった。
「ごめん、さすがにそれは。ちょっとがまんできない」
「ええっ、ちょっ、こらっ。夕飯の支度、まだなんですけど?」
「ぜんぶ、あとまわしにしようか」
ぼくはニッコリ笑う。
ちょっと強引だと自分でも思う。
「こういう時だけ強引なんだから。あんまり無茶したら怒るからね」
そう言って彼女は、ぼくの額にデコピンをくれたのだった。
(おしまい)
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