第2話 おくさんのチョコレートがめっちゃ甘かった件
ぼくの朝は、ねこに起こされるところからはじまる。
ねこの名前は「
名前の由来は話すと長くなるので、また今度話すとしよう。
彼女は、かれこれ3ヶ月ほど前に上司から無理やり誘われた譲渡会で引き取ってきた、由緒正しき三毛猫ふうの雑種だ。
生まれて間もなく保護された彼女は、いまやぼくの家の支配者だ。
今日もぼくの鼻先に当然の権利とばかりにお尻を向けてくるので、否応なく目が覚める。
これはどういう習性なんだろうか。
女の子としてそれはどうなのか、とも思うけど。
まあ、ねこだからなぁ。
ぼくの知り合いのネット小説家は、「猫のアナ◯を押し付けられても怒らないのがねこ好きとして一人前の証」とか言ってたっけ。
別に怒りはしないけど、ニオイは勘弁してほしい。
寝ぼけまなこで、まだ寝ているおくさんを起こさないようにそっとベッドから抜け出す。
うん、今日もおくさんの寝顔は宇宙一かわいい。
本来ぼくは早起きは苦手なんだけど、この寝顔のためなら起きられるね。
階段を降りて一階の台所へ向かう。
もちろん微力さんが先導してくれる。
彼女はおくさんが寝ている時は、絶対鳴かない。
微力さんは賢いのだ。
台所に到着すると、さっそくお得用のカリカリの袋を開けて、フードボウルに盛り付ける。
微力さんは旺盛な食欲でカリカリを食べ始める。
それを見届ける暇もなく、ぼくはテレビのスイッチをつける。続いて、コーヒーメーカーのセッティングを済ませる。
次に食卓に置いてある全粒粉入りパンの袋を開けると、パンを取り出す。
冷蔵庫の野菜室からキャベツの残りを取り出し、シンク下の引き出しからツナ缶をチョイス。
電熱式のホットサンドメーカーにパンとツナ、キャベツの千切りをセット。
その間に卵を取り出して、フライパンで目玉焼きを焼く。
もちろん目玉は半熟で、堅焼きにならないうちにフライ返しで救出して皿に盛り付ける。
それが済んだら、すでにドリップが終わっているコーヒーメーカーからコーヒーサーバーを取り出し、食卓のカップに注ぐ。
コーヒーの良い匂いに混じって、かすかにカカオ豆の匂いがしてくるのに気付く。
あれ、ココアなんて昨日飲んだっけ。
その思考は長く続かなかった。
テレビの朝のニュース番組が上海協商連合と北京共和国がきな臭くなっているとかいう憂鬱なニュースを流していたからだ。
日本まで飛び火しなけりゃいいんだけどなあ、と思う。
次は打って変わって、唐突に明るいトーンで「まだ間に合う、バレンタイン・チョコレート特集」をやり始めた。
報道番組なんだか、何なんだか。
そういえば、今日はバレンタインデーだっけ。
学生時代はもらえた思い出があまりないけど、いまはおくさんから確実にもらえるからな。
そう思うと、なんだかニヤニヤしてしまう。
不意に階段を降りてくる音がする。
うちのおくさんは、相変わらずねぐせのひどい頭のままだ。
まあ、そんなパジャマ姿のままでもかわいいんだけど。
「おはよう、もうご飯出来てるよ」
「ありがとう。ちょっと顔を洗ってくる」
彼女はそのまま回れ右をすると、廊下へ出て洗面台へ向かう。
その間にぼくは食卓のセッティングを終えてしまうのだった。
「いただきます。ねぇ、たまには私がご飯作ろうか?」
ホットサンドを手に取った彼女は、どこか申し訳なさげだ。
ちなみに彼女の髪の毛はもうきちんとセッティングされている。
顔つきも、凛々しいビジネスモードに近くなっている。
ほんと、彼女はオンとオフの落差がはげしい。
「好きでやってることだからさ。それに休みの日はかわってもらってるし」
「私、朝はどうしても起きられない。ごめんね?」
「いいんだよ。な、微力さん」
にゃー、と微力さんは分かっているのかいないのか返事をしてくれる。
和やかながら慌ただしい朝食を終え、ぼくは2階へ戻る。
ちなみに洗い物はおくさんの担当だ。
といっても、自動食洗機に食器をセットするだけだけど。
クローゼットからよそ行きの服を取り出して着替える。
うちの職場は背広でなくても良いけど、流石に部屋着という訳にもいかない。
いちいち組み合わせを考えなくていいから、背広の方がラクなんだけどなあ。
一階に戻ると、おくさんもビシッとスーツスタイルになっていた。
うーん。いつ見ても別人みたいにシャキッとしてる。
特に仕事用のメガネをかけると、出来るキャリアウーマンモードだ。
実際仕事場ではプロジェクトリーダーを任されているらしいし、有能であることは間違いない。
「それじゃ、微力さん行ってくるねー。あーもう、微力さんかわいいなぁ。会社行きたくないー、むしろ微力さんつれていきたい」
前言撤回、やっぱりうちのおくさんはかわいいモンスターだ。
一瞬で仕事出来るモードから、かわいいモードに変わるのは勘弁してほしい。
いや、ほんとうちのおくさんは、せかいいちかわいい。
なあ、微力さんそう思うよな。
微力さんののどをごろごろしてやりながら、ぼくは幸せにひたる。
と油断しているところに、横合いからおくさんの不意打ちのキスをもらう。
やばい、思考が溶ける。
「いってらっしゃいのキスってやつ、やってみたかったんだ」
そういって舌をペロリと出して見せるわがおくさん。
いや、ほんと油断大敵だ。
だけど、結局その日のうちにチョコレートはもらえなかった。
なんでもない風を装っていたけど、その日寝る時には正直かなり落胆していた。
そりゃあ、恋人同士じゃなくて夫婦だもの。
世間のイベントに合わせて、チョコレートをもらう事もそのうち無くなるのかなぁ、と思ってたけど。
「ぼん、何や落ち込んでるね。なんかおしたん?」
なかなか寝付けずに、居間に降りてきたぼくを出迎えたのは微力さんだった。
ねこが話しかけてくることに最初は驚いていたけど、もう三ヶ月も経つと慣れてくるから困ったものだ。
まあでも聞こえるものは仕方ない。害がある訳でもないし。
正確に言うと、音声で話しているというよりはテレパシーみたいなものだと思うけど。
ちなみに、微力さんが何で京都弁を「話す」のかは謎だ。
「ああ、微力さん。うちのおくさん、ことしはバレンタイン・チョコをくれなくてさ。これ、倦怠期ってやつなのかなあ」
「はーん、そないゆーことか。かな娘も不器用やねぇ。まあ心配しいひんでもええ思うで」
「微力さん、何か知ってるの?」
「それ言うたら無粋どすさかい、言えまへん。まあ気にしいひん方がええで」
微力さんはチェシャ猫のようににんまり笑うと、居間を出て行く。
ぼくはあきれ顔でそれを見送りながら、ぬるくなったホットミルクを飲み干した。
おかげで翌日はちょっと寝坊してしまった。
目覚まし時計を見ると、もう8時近い時間。
かなり朝の手順をすっ飛ばさないと、会社に遅刻しかねない時間だ。
寝室を見渡すと、微力さんもおくさんもいない。多分、もう居間にいるんだろう。
慌てて一階へ駆け降りて居間のドアを開ける。
彼女は真っ赤な顔で出迎えてくれた。
ほっぺに褐色の何かが跳ねてくっついているし、エプロンにも同じ色のシミが出来ている。
小声で間に合った、とかガッツポーズを決めてるけどなんのことだろう。
食卓の料理はやや黒焦げのトーストに、これまた端っこが焦げてる目玉焼きが載っている。
まあ、食べられない訳じゃないし、夫婦生活をはじめた頃よりはだいぶ上達したと思う。
「ごめんね、寝坊した」
「ん、いい。今日は私が料理したかったから」
そう言ってはにかみながら笑うおくさん。
「やっぱり、うちのおくさんは宇宙一かわいいな!」
あ、ヤバい。思わず声に出してしまった。
「……もう、バカなこと言ってないで。早く食べないと遅刻するわよ」
そう言って彼女は、下手な照れ隠しをするのだった。
慌ただしい朝食を終えて、着替えを済ませて玄関に駆け込む。
腕時計をみると、もう8時半近い。
ぼくは自転車通勤。いつものショートカットルートを使えば、なんとか職場まで5分前に滑り込める計算だ。
「ちょっと待って。これ、持ってって」
不意に後ろから、おくさんの手が伸びる。
綺麗な手で差し出されたのは、バラの模様が印刷されたベタな贈答用の紙袋。
「あ、これ…」
「ちょっと遅れたけど、バレンタインのチョコレートだから」
え、なにそれ。
期待してなかったから、例年以上にめちゃくちゃ嬉しいんですけど。
というか、うちのおくさん学生のときみたいに顔赤くしてるし。
「ほら、私、料理下手じゃない?だから、去年までは市販のもの贈ってたけど、今年はやっぱり手作りに挑戦したくて……お陰でだいぶ時間かかっちゃったけど」
「うん。ありがとう。めっちゃ嬉しい」
気づくとぼくは、思わずおくさんを抱きしめていた。
あー。このまま仕事サボっちゃいたい。
「こら、やめ…もう。仕事に遅れても知りませんけど?」
そう、氷点下の声で言われて、ぼくはあわてて腕時計を見る。
うわ、これは洒落にならない。
……この後めっちゃ自転車漕いだ。
始業1分前に職場に滑り込んだ。
けれど、その日一日ニヤニヤが止まらず、上司からこっぴどく叱られたのは言うまでもない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます