2-9.芳生の内緒

 妙な空の下の真っ白な世界。宙に腰掛けた男はおもむろに天を仰いだ。


ムショクノソラ無色の空

 妬ましくて、悔しくて、情けなくて、見上げることの出来なかったこの空が、その言葉を聴いたときから、過去のものとなった。


氷上ひかみさま?」

 呼びかけられた男はサングラスを外し、異様に端整な顔立ちをあらわにする。

「…ちょっと無闇に喚び過ぎじゃないですか?」

「いや。

 塔を登る決心がついたと聴いて、激励をしておこうかと思ってな」

 伏し目がちに言う彼の長い睫毛は、髪と同じく綺麗な金髪で、輝いているように見える。芳生は小さくため息をついて、肩をすくめた。


「私の美貌に思わずため息が出るか?

 仕方ない。存分に眺めてよいぞ」


 今度は大きなため息が出る。こちらのことはお構い無しでニコニコと嬉しそうな男の様子に、芳生はフニャフニャと笑いを浮かべるしかなかった。


 ******************************


「……うむ。

 しかし、やはりハエの匂いがするな…異教の香りだ」

 そう言って、その“光”は瞬いた。


 それは、芳生が初めて“部屋”に喚ばれたときのこと。

 不思議な空の下、ただぼんやりしていた彼に、それは話しかけてきた。


「少年。君は一体、何者だ」

 オルガンのように身体に響く少し低い声。


「ただの人間の子どもには違いないようだが…」

 困惑している彼の周りを、その“光”が見定めるように、ぐるっと回った。


「……何?…もしかして、神様?」

 恐る恐る芳生が言葉を発すると、光はびかっと輝きを増し、低い笑い声を放った。それは衝撃波のように辺り響き渡り、小柄な彼はびっくりして尻餅をついてしまった。


「くっはっはっはっ!!スマン!スマン!

 まさか、私をしゅと間違うとは!

 いくら堕天した私といえど、そこまで傲慢にはなれんよ。

 …だが、そうだな。

 ちょうど、今世の名について迷っていたところだったのだ。少し、参考にさせてもらうぞ…」


 何のことやら、さっぱりでキョトンとしている彼をお構い無しに、“光”はベラベラと話す。そうかと思うと、少しの沈黙を置いて、再びピカッと光った。

 そして、芳生が恐る恐る目を開くと、そこにはピカピカのイケメンホストが足を組んで座っていた。いや、座った格好で宙に浮かんでいた。

 黒のワイシャツに落ち着いた深い赤のネクタイ。細めの黒ズボンが彼の長い足をさらに引き立てる。


 そして、何より顔が良い。


 上品に整えられた短い金髪の下の小顔には、これ以上なく美しいパーツが美しく並ぶ。いわゆる黄金比率といわれるであろう、どの国の人も認めるような美貌だった。


「…ふむ、こんなところか。…人間ヒトの姿をとるのはあまり好きではないのだが、見たところ、君は異教徒どころか、無神論者らしい。ならば、この方が良いだろう。


 ……そうだな。私は……氷上ひかみ与市よいち

 ここの世界を作った悪魔だ。気軽に『氷上さま』と呼んでくれたまえ。

 君の眼と心が気に入ったので、何か願いを叶えてあげよう」


 芳生は訳も分からず、立ち尽くす。

 あまりに非現実な急展開に加え、外国映画の俳優のような端整な男が、歌うようにペラペラと話しているものだから、夢見心地にぼんやりと口を開けて聴くだけで、精一杯だった。


「…何が良いだろうか。

 そうだな。今は天使じゃないので、布教をするつもりはないが、何かしらの信仰は持つに越したことはないぞ。

 この島国でも『わらをも掴む』というだろう。

 今、必要でなくとも、苦しいときにはすがるものはあるに越したことはない。


 だが…。だが、君の世界をひとつに決めてしまう必要はない。

 今の私もひとりの神に拘るつもりはないからね」

 そう言って、キョトンと見つめる芳生にウィンクした。まるで光が瞬くように。


「ふむ…せっかくなら、私が勝手に君の信仰のひとつになって進ぜよう。

 我が旧友の身内のようだからな。なに、遠慮することはない。


 …だが、堕とされた今は以前ただ与えるだけということは出来ないからな…。そうだ、塔の上まで来るといい。その努力の見返りに私がぶどうの木となろう。

 君は私の枝だ。さぞ豊かに実るだろう」


「…ぶどうの?…木の枝?

 え?でも、“お願い”をしちゃダメって」


 ようやく芳生が声を出すと、男はニッコリ笑って立ち上がる。

 長身というよりバランスの整った身体つきだったが、立っても少し宙に浮いているために、芳生は首をぐっと上げないと彼の顔が見えなかった。すると、男はぐぅっとしゃがみこんで、芳生に視線を合わせて言った。


「んむぅ、…そうか。無神論者の日本人だからな…。

 その…つまり、私の元まで辿り着けば、将来の栄光を掴む“力”を与えようということだ。

 要らなければ、来なければいい」


 その真っ直ぐな瞳は強い光を放ちつつも、どこか優しくて…。気づくと、芳生はただ黙って頷いていた。


 ******************************


 ――では、改めて。

 ようこそ、我らが光の塔へ。不運な君を迷える子羊たちが出迎えよう。存分に楽しみたまえ。

 行く先が闇の詰まったかの大甕おおがめだとしても、一欠片の光くらいは残っているだろうから。

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