1-4. 静かな林を風、もとい嵐の如く

 夜の帳が降りた頃。

 ごく普通のそのアパートは、妙な緊張感に包まれていた。

 南向き十数階建てのそこは、いつもであれば、夕食の香りが通路を漂う時間。にもかかわらず、電球が明るく照らす通路は、息を殺すように静まりかえっている。

 そこで動いているのは、明らかに住民ではない男たちと、電球に吸い寄せられた羽虫たち。

 人がすれ違える程度の幅しかない通路を彼らは彷徨うろつく。


『……こちら…Jack1、配置完了』『…Jack2も完了です…』『Lantern1、準備整いました…いつでも狙撃できます…』


 彼らの纏う剣呑な空気は然ることながら、無線で何かやり取りしていることが、より住民たちの不安を煽った。110番の通報をしている人もいそうなのだが、一向に警察が現れる気配はない。アパート中で男たちの蠢く気配が感じられ、ただただ空気が澱んでいく。


「ぎょへぇぇぇ?!」

 そんな中、調子はずれな悲鳴が響きわたった。

「何?何?こんなにいっぱい黒服の人がいはるおられるって、何か有名人でもいはんの?ボディーガードなん?

 ミッションインポッシなん?」

 騒いでいるのは、長い金髪にパーマをあて、強い香水をつけた中年女性。

 エレベーター前に立っていた男たちに捲し立てるように話しかけていた。

「あたし、今日初めて東京来てんけど、やっぱ東京は何処にもここにも有名人いはるんやなぁ!!」

 男たちは、目を合わさないようにしているが、女性はお構いなしに喋りたおす。

「息子の引っ越しのお手伝いに来ただけなんやけど、あたしも有名人にバッタリ会えたりせぇへんやろか……?お!こんなとこにイケメンや!

 …と思ったら、あたしの息子やったわ!!だっはっはっはっ!」

「もう母ちゃん……。ええ加減にしてよ」

 女性の横で、ニット帽の男性が困ったように言う。サングラスで目は隠れているが、眉毛はへの字になっていた。

「堪忍なぁ、お兄さんたち。ウチの母ちゃんがやかましくて。

 あっ!吸ったらアカンて。ここは禁煙って書いたあるやん。もう、やめてよ母ちゃん」

 がっはっはーと愉しげな彼女に振り回される彼の手には大きなスーツケース。それを不審そうに眺める黒服たちに、男性は照れ臭そうに頭をかいて言った。

「いやぁ、断捨離にハマってしもて。家具とか全部売ったら、荷物はこれだけに……。少し前に流行った“ノマド”って奴ですわ」

 そう言うと軽く会釈して、駐車場の方へと去っていった。

 スーツケースの音が聴こえなくなると、彼らは揃って、ため息をついた。それを合図に気が抜けて、クスクスと笑いあい、雑談に興じ始めたとき、そのうちのひとりが無線の先が騒がしくなっていることに気づく。


『部屋はもぬけの殻だ』『何だって?』『襲撃前には間違いなく対象はいたぞ』『いつの間に逃げたんだ?』『こちらの階段は誰も通っていない』『こちらもだ』『窓からも逃げた形跡はない』


 エレベーターを見張っていた彼らが、首を傾げて顔を見合わせていると、嘲笑うように軽いエンジン音が走り抜けていった。


『やられた!!奴ら変装して逃げやがった』

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