七、古夏れお
「れおさんは、生きづらい、と思った瞬間はありましたか?」
その質問が飛んできて、少々狼狽えてしまった。まさか、自分にバトンが渡されるとは思ってもみなかった。
「えーと。そうだなあ。うん、あったよ、僕は、今の妻と、若い頃にトラブったときかな」
「今の奥さんとは、いつ出会ったんですか?」
「出会ったのは、高校生のとき。でも、一度別れたんだよね。その後、何年かして、もう一度付き合い始めて、結婚したの」
「え、そんなことってあるんですね。ロマンチックだなあ」
「そうかなあ。まあ、そんな感じ」
「ちなみに、奥さんとは、どうやって復縁したんですか?」
僕は、飛んできた質問に答えるべく、頭の中を整理した。少々間を置いて、口を開いた。
妻のことを、「かな」って呼んでるんだけど、かなと別れたとき、もし、もう一度だけ巡りあうことがあったら、二人で最初からやり直そう、やり直させてほしいって、僕が言ったんだ。
それから何年もたった後だったけど、かなと偶然、道ですれ違ったんだ。
でも僕は、声をかけなかった。もう、お互いに、それぞれの人生を別々に歩んでいったほうがいいとその時は思っていたから。
いっぽうで、かなは、僕に笑顔で話しかけてきた。「あ、れおくん! 久しぶり!」って。
僕も、「おう。久しぶり」って、返事した。
そこから二人で、ご飯を食べに行って、ちょうど店を出るかでないかの時に、かなが僕に言ったんだ。「ねえ、れおくん、あの時の約束、覚えてる?」って。
そんな経緯を経て、僕たちは復縁することになったんだ。
何だか、ドラマの主人公になったような気分だったよ。人生には、こんな偶然が訪れるんだなあと、ちょっと感動した。
復縁してからは、かなとうまくやってるんだ。
以前の失敗を経て、たくさんのことを学んだからね。
特に、日頃から、お互いの得意な部分と不得意な部分について話し合っておくのは大事だよ。
いざ何かトラブルが起こったときに、お互いがお互いを苦しめる関係に陥ってしまわないようにね。
妻と復縁した経緯について話し終えた僕は、まだ僕も妻も十代だった頃の、苦しかった記憶に身を浸した。あれは、確か、自分の部屋…… 苦しくて、苦しくて仕方なかった。
ラインの返事が来ない。電話も来ない。会えない。
寂しさのあまり、僕は、床に体育座りになって、膝の中に顔を沈ませた。
鬱蒼とする部屋の中には、かなにもらった可愛らしい鳥の人形が置いてある。かなの顔を想像する。
会いたい。
会いたい。
かなに、会いたい。
右手に握ったスマホに目を向ける。画面には、六時間前に打った僕のメッセージが表示されている。相手はかなだ。
「寂しい」
相変わらず、既読は付かない。
僕は再び、膝の中に顔を沈ませた。
かなと会うことが難しくなったのは、僕とかなのお母さんとのトラブルが原因だった。今までは、かなの家にお邪魔させてもらうことで、僕は簡単にかなに会うことが出来た。
ラインが来ないのも、電話が来ないのも、外で会うのが難しいのも、理由は明白だった。かなの精神状態が安定しないからだ。僕は、彼氏として、この「寂しさ」に耐えるという試練を乗り越えなければならない。
それに、もとはと言えば、僕がかなの親とトラブルなんか起こさなければ、すべてがうまくいっていたんだ。
かなのお母さんは、日頃から僕への当たりが強かった。「過干渉」という言い方もできるかもしれない。
僕はそれだけで、相当なストレスを抱えていた。
その時付き合いを持っていた、何人かの友達との人間関係を切り離した。精神的に、かなり追い込まれていた。
だが、僕はそんな自分を恥じていた。たかがそんなことで、めげていてはダメだ。そんな彼氏では、みっともない。辛くても、それを表には出さず、凛々しい男でいよう。そんな風に、自分を叱咤した。
だが、あるとき、たかがはずれた。
お母さんの、皮肉や嫌味のこもったメッセージに、チャット上で、食ってかかった。
僕のメッセージに対し、お母さんは激怒した。僕は後で謝罪の手紙を書いたが、お母さんから返事が来ることはなかった。
その時から、僕はかなの家に上がれなくなった。
今までの我慢を、僕はすべて棒に振ってしまったのだ。何と愚かなのだろうと、自分を嫌というほど罵った。だが、取り返しはつかなかった。
一度、かなにお母さんとのトラブルについて話したこともあった。話すといっても、それはお母さんに対する愚痴のような内容だった。
かなとしては、自分の親を悪く言われるのが不快だったらしく、僕に対し怒りをあらわにした。かなにとって親は、非があると思いたくない大好きな存在だったらしい。
それからというもの、僕は、かなの好意を信じられなくなってしまった。
ただ、別れるのは違うと思った。それは、もしかしたら僕の勘違いにより、かなのことを一方的に疑っているだけかもしれないからだ。
午後十時、かなからラインの着信がきた。
僕の「寂しい」というメッセージに対し、「そうなんだね。どうにかできないかな......」という返事だった。
目の前の、煌々と燃える火に意識を戻した僕は、胸のなかに潜むムカムカする感覚に気づいた。きっと、これは後悔とか、自責の念だろう。
あの頃、僕はかなのことを傷つけてしまったから。
かなの親御さんとトラブルが起きてから、かなと会う頻度が格段に減って、日に日に、僕の精神状態は正常ではなくなっていった。
少しずつ、かなに対して当たるようになってしまっていたし、かなの親や、かな自身に言われたことがフラッシュバックして、四六時中、負の感情でいっぱい一杯の状態だった。
あの時、かなに言ってしまった酷い言葉。
脳裏に焼き付いている苦い記憶が鮮明によみがえり、僕の五感を刺激し、その時の情景を再体験させる。
あれは、二人でデートしているときのこと。
「僕の気持ち、もっと考えてよ」
そう言って僕は、左手に握ったかなの手を放した。
視界の先に写る真っ赤に染まった空が、過激な戦争の終焉のような雰囲気を醸し出している。わずかではあるが、血生臭い悲しみの臭いが、鼻の奥をつんと刺してくる。
新宿中央公園のコンクリで固められた道の上を、かなの小さな歩幅に合わせながら、二人並んで進んでいく。
公園に植えられた木々が、顔を歪めてこちらをみているような、そんな錯覚さえ襲ってくる。葉の擦れる音が、感傷をうたったオーケストラの旋律のようにきこえる。
かなの顔をみやると、小さな唇の端をきゅっと結んだまま、ただじっと、自分の足のつま先を見つめていた。そのとき、わずかにかなの唇が動いたのを、僕は見逃さなかった。口角が少しだけ下がり、口周りが若干痙攣した。
かなの真っ黒な瞳がこちらを向いたとき、自分が取り返しのつかないことをしてしまったのだと気づいた。先ほど鼻の奥でわずかに感じた鉄の臭いが、喉元を通り過ぎて、胸のあたりまで降りてきた。
かなの真っ赤に腫れた大きな目からは、今にも涙がこぼれ落ちてしまいそうだった。
こんなつもりはなかった。かなを傷つけるつもりはなかった。ただ、自分の気持ちをかなに理解してほしかっただけだ。
少し冷たい秋の風が、僕らの間を吹き抜けていった。
その後は、どうしたんだっけか。
なんて、僕が思うはずはない。あんなに忘れられなかった、辛い記憶だ。その後のことも、僕はよく覚えている。
二人のこれからの関係性に見切りを付けた僕は、かなを振った。
が、かなには、別れる以外の方法を考えてほしいと真剣に頼まれた。かなからすると、僕は目の前にある問題から逃げているだけだと感じたようだった。
そこで、僕は、別れる以外の方法を探すことにした。精一杯、自分自身と向き合う日々が続いた。
しかし、僕の精神状態は悪化の一途を辿るいっぽうだった。
感情でいっぱい一杯になると、「もう別れる!」なんてことも、勢いで言ってしまうようになっていた。だが、いつもそのセリフは本気ではなかった。
僕はなんとか、僕たちの関係が快方に向かうよう尽力した。
ところが、僕の努力も虚しく、僕の精神は限界に近づき、かなは僕に振り回される日々が続いた。二三回は、僕たちは別れて付き合ってを繰り返したと思う。
そんななか突然に、僕たちの関係に終止符が打たれる日がきた。
僕がかなに、勢いで「別れる」と言ってしまったことがきっかけだった。スマホの画面を見つめて、僕は、思わず打ってしまったメッセージに後悔を覚えた。
「別れるか別れないかは、かなが決めて」
僕はそんな投げやりなことを言った。半日を経て、かなは、別れるほうを選んだ。
かなからの返事を待つ間、僕は、別れようが別れまいがどちらの道に転んでもいいと思っていた。かなから返事がきた後も、荷が降りた感はあったものの、さほど大きな喪失感は感じなかった。
だが、一月ほどの時間の経過とともに、僕は自らの過ちに気づいた。
それまではかなのせいにしていたことも、実は自分のせいだったかも知れない。自分自身の未熟さを、嫌というほど思い知った。
それから、すべてのことをどうでも良く感じた。自分のばかさ加減、愚かさ加減に、呆れて物も言えなくなった。
これから先、自分にどんな輝かしい未来が訪れようとも、どんないい思い出が待っていようとも、すべてどうでもいい。
僕は、かなに抱えきれないほどの大きな未練を感じた。
もう一度、一からやり直して、かなを幸せにしたい。今まで傷つけてしまった分、僕がかなの暗い毎日を照らしたい。
そんな想いに、来る日も来る日も囚われていた。
そして、かなと一切の連絡を取り合うのを止めることになったとき、僕はかなにこう言った。
「もし、かなと、もう一度どこかで巡り会うことがあったら、その時は、もう一度だけ、僕とやり直せるか考えてほしい。それから、今まで傷つけてばかりで、本当にごめんね。どうか、幸せになってほしい」
顔の全体に感じる熱気に、僕はある種の安心感を覚えた。
あの頃のことを思い出すと、未だに、自分のことを、怪物のようだと僕は思う。だが、この燃えさかる炎だけは、僕を価値判断しない。選り好みせずに、照らしてくれる。
火照った頬を上げ、僕は参加者の顔を見渡した。
そして、妻と若い頃にトラブった話を、順序立てながら、ゆっくりと話し始めた。
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